沖縄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 15:07 UTC 版)
湖城家(湖城流)の証言によれば、船越義珍は、明治18年(1885年)春、16歳の時に初め那覇手の大家・湖城大禎(1837年 - 1917年)に唐手を師事したとされる。しかし、5尺に満たない体格に那覇手が合わない、または大禎との折り合いが悪かったのか、船越が師事した期間はわずか三ヶ月間に留まった。 その後、船越は首里手の大家・安里安恒に本格的に師事することになった。首里貴族である安里が、泊士族の家系である船越に首里手を教授することになった理由は、船越が安里の長男と懇意であったからである。安里に師事した正確な時期は不明であるが、船越によれば、安里は最後の琉球国王であった尚泰侯爵に随行して、明治12年(1879年)から13年間、東京の麹町(千代田区)の尚家に仕えていたという。安里が沖縄に帰郷したのは、明治25年(1892年)であった。それゆえ、船越が安里に師事したのは、24歳以降であったと推定される。安里からは特に公相君(観空)の型を学び、これは船越得意の型となった。 なお、鎌倉の円覚寺境内に建てられた石碑の碑文(大浜信泉書)には「十一歳の頃より唐手術を安里安恒、糸洲安恒の両師に学び…」とあるが、安里の東京滞在中と期間が重なり、信憑性に乏しい。船越は安里の唯一の弟子であった。また、安里に師事するかたわら、安里とは同じ松村宗棍門下で友人でもあった糸洲安恒にも師事したと言われている。しかし、摩文仁賢和の長男・摩文仁賢榮は、船越は息子の船越義豪を通じて、摩文仁賢和から糸洲の型を習得したのであり、糸洲には直接は師事していないと、その経歴を否定している。 小学校で教鞭を執りながら、船越は小学生達に唐手も指導していた。大正5年(1916年)頃、泊小学校で船越に唐手を習った長嶺将真によると、船越は生徒達にナイファンチ(鉄騎)やピンアン(平安)の型を教えていた。なお、藤原稜三によれば、船越は摩文仁賢和からピンアンを学んだという。これは、船越が安里の直弟子で、糸洲からピンアン(糸洲の創作型)を習得する十分な機会に恵まれなかったからだと思われる。しかし、後には「ピンアン先生」とあだ名されるほど、船越得意の型の一つになった。 その後、三十有余年続いた教員生活を終えると、船越は先輩や友人たちと私的に沖縄学生後援会や沖縄尚武会などを設立し、学生の支援や唐手の普及、統一の活動を始めた。 大正5年(1916年)京都武徳殿において唐手を演武。 大正6年(1917年)5月、船越は摩文仁賢和が自宅で開いた「沖縄唐手研究会」に参加。この会には、屋部憲通、花城長茂、宮城長順なども参加していた。また、大正8年(1919年)からは屋部憲通の推薦を受けて、沖縄県師範学校の予科(明治41年開設)の生徒達に、課外体育として唐手を指導した。 大正10年(1921年)3月、欧州外遊の途中、沖縄に立ち寄った昭和天皇(当時・皇太子)の前で、中学校・師範学校生徒が首里城で唐手の御前演武することになり、船越はその指揮を採った。
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沖縄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 21:28 UTC 版)
本部朝基は幼い頃から武を好み、数えで12歳(満11歳)の時より、首里手の大家・糸洲安恒を唐手の家庭教師として招き、長兄・本部朝勇とともに師事した。糸洲に師事した期間は7、8年だったと言われる。成長するにつれて、首里手の大家・松村宗棍や佐久間親雲上らにも師事した。また、泊手の大家・松茂良興作にも師事して、特に組手を教わった。朝基は「武これ我、我これ武」というほど唐手の稽古に打ち込み、上記の諸大家以外にもおよそ名のある武人はすべて訪ねて教えを乞い、実際に立ち会い、唐手研究に没頭した。 朝基は唐手の稽古だけでは飽きたらず、当時の遊郭・辻町に出かけ、数々の掛け試し(一種の野試合)を行い、負けることを知らなかったと言われる。型稽古を中心とする当時の唐手家の中では異色の存在で、一部の唐手家達からは顰蹙(ひんしゅく)もかったが、24, 5歳の頃にはその武名は3歳の童子すら知らない者はないと言われるほどになった。掛け試しの実践などの異端性にもかかわらず、朝基が多くの大家に師事できたのは、旧王族という出自が関係していた言われる。廃藩置県後も、沖縄県では独立・帰属問題を巡って開化党(改革派)と頑固党(保守派)が対立し、旧支配階層の一部には、清国へ亡命して独立支援を訴えるなど不穏な動きがあった。このため、明治政府は旧支配階層を優遇する旧慣温存策を実施した。これによって、明治末期まで封建的雰囲気が続いたといわれる。朝基が諸大家に師事できたのには、こうした当時の時代背景があった。 実戦を通じて組手の技を磨く一方で、朝基は同じ松村・糸洲門下で親友の屋部憲通と、長年、組手研究を行っていた。何百という掛け試しの経験と、長年にわたる屋部との組手研究の成果は、後年、朝基の著書にその結晶として現れることになる。
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沖縄時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:41 UTC 版)
沖縄では琉球王国時代から、那覇の遊郭・辻町で掛け試し(琉球方言:カキダミシ)と呼ばれる野試合が行われていた。掛け試しはしばしば辻斬りのように解説され、実際そのような問答無用の勝負も確かにあったが、一般には立会人をともない、ルールに則った顔面、急所への正拳・貫手有りの、もしくはライトコンタクトによる組手試合であった。日が暮れると、提灯を掲げて試合を行い、ある程度勝負がつくと立会人が試合を中止させた。試合後は講評を行い、それぞれの技や熟練度について、立会人も含めてお互いにアドバイスをしたのである。掛け試しの実践者は無敗を誇った本部朝基が有名だが、屋部憲通、喜屋武朝徳など当時の大家も掛け試しを行って、組手技術の向上を目指していた。但し、後述する大山倍達らによる「フルコンタクト=直接打撃制」とは全く異なるものである。
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