沖縄本島へのアメリカ軍の上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)
「沖縄戦」の記事における「沖縄本島へのアメリカ軍の上陸」の解説
4月1日朝、アメリカ軍は守備の薄い本島中西部で、第7・第96歩兵師団と第1・第6海兵師団による上陸を開始した。戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、127mm以上の砲弾44825発・ロケット弾33,000発・迫撃砲弾22,500発が撃ち込まれた。北飛行場(読谷村・後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)の占領が第一目標とされた。第32軍が宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、日本側が中西部沿岸地域に置いたのは賀谷支隊(1個大隊基幹)と急造の特設第1連隊だけであった。日本軍が水際作戦を放棄したため、アメリカ軍はその日のうちに6万人を揚陸して北・中飛行場を確保。4月3日には第7歩兵師団が東岸の中城湾(アメリカ軍呼称:バックナー湾)へ到達し、第32軍は沖縄本島南北に分断された。4月5日までにはうるま市石川周辺の東海岸一帯が占領下に入った。日本軍は飛行場を自ら破壊していたものの、作業期間が短く不徹底であった。アメリカ軍は1日夜には中飛行場を不時着場に使える程度まで復旧、8日には北飛行場へ戦闘機89機を進出させて上陸船団の防空任務を開始した。翌週には夜間戦闘機まで含む144機が展開して強力な防空網を形成してしまった。 第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営・第10方面軍司令部・航空関係者などから消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた。アメリカ軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や連合艦隊の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導で攻勢移転が一時決定されたが、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された。この港川方面への「上陸部隊」は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸しなかった。 アメリカ軍はたびたび、沖縄南東側に陽動作戦をしかけており、沖縄本島上陸直前の1945年3月27日にも、沖縄本島東岸の中城湾に輸送船等からなる9隻の囮船団を近づけている。海軍根拠地隊の司令官大田実少将はこの囮作戦に引っかかってしまい、指揮下の特攻艇震洋に出撃を命じたが、囮船団は海岸近くまでは接近してこなかったため攻撃する機会はなく、そのまま基地に帰投した。その様子を偵察機で偵察していたアメリカ軍により震洋の発進基地は特定され、艦載機による空襲で、アメリカ軍上陸前に海軍の特攻艇はほぼ壊滅してしまった。陸軍の特攻艇マルレは慶良間諸島占領で主力を失っていたが、残存艇が散発的な攻撃でアメリカ軍に打撃を与えており、1945年4月9日には「チャ―ルズ・A・バジャー(英語版)」をキールが歪み大量浸水する甚大な損傷で大破航行不能に追い込んでいる。 4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、菊水作戦と連動させる形で戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊も出撃させることとした。大和の出撃前に連絡を受けた牛島は連合艦隊に「ご厚意は感謝するが、時期尚早と判断するので、海上特攻の出撃は取止められたし」と自重を求める打電をしたが、出撃は決行され「大和」以下は戦果なく一方的に空襲を受け撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。 菊水1号作戦の日本軍の方針は「可能な限り多数の飛行機を集団的に使用する」であり、太平洋戦争中での日本軍による最大級の航空攻撃となった。アメリカ海軍はフィリピンで特攻により多大な損害を被ったため、様々な特攻対策を準備して沖縄に侵攻した、そのなかのひとつが、半径100㎞の巨大な円周上に主力艦隊や輸送艦隊を包み込むようして、レーダーピケット艦を配置して、レーダーピケットラインを張り巡らすというものであったが、想定を超える特攻機の数に、レーダーピケットライン自体が特攻機の猛攻を受けることとなってしまい、レーダーピケット艦のうちの1艦であった駆逐艦「コルホーン」のレーダー担当士官は「これは大変だ、何機いるだろうか」と叫んだ直後に、40機の特攻機に僚艦の駆逐艦「ブッシュ」と集中攻撃され、2隻とも2機ずつの命中と多数の至近弾を浴びて沈没、「ブッシュ」の艦長兼第98駆逐艦隊司令J.S.ウィリス中佐以下多数の将官と将兵が戦死している。また、特攻機対策として、各空母の艦上爆撃機や艦上攻撃機を減らして大量に搭載された艦上戦闘機が特攻機を迎撃して大量の特攻機を撃墜したが、それでも355機の特攻機の内200機までに沖縄周辺海域への突入を許して、アメリカ海軍は多大な損害を被った。 日本軍は菊水1号作戦で戦艦2隻轟沈を含む69隻撃沈破という驚異的な戦果を挙げたと報じたが、アメリカ軍の記録では駆逐艦3隻、重砲の大口径砲弾7,600トンを満載したビクトリー型弾薬輸送船(英語版)2隻、戦車揚陸艦1隻撃沈、正規空母「ハンコック」、戦艦「メリーランド」大破などの34隻撃沈破であった。日本軍の戦果報告は過大ではあったが、実際にも連合軍に多大な損害を与えたことには変わりなく、この成功で特攻作戦への自信を深めた日本軍は、こののちも10回に渡って菊水作戦を続けていくことになる。 この空海からの反撃にあわせて、第32軍も第10方面軍の指導で再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した。同時期には中国方面航空作戦を担う陸軍第5航空軍から派遣された、独立飛行第18中隊分遣隊の一〇〇式司令部偵察機「新司偵」III型甲が、沖縄本島のアメリカ軍占領下飛行場および洋上の機動部隊に対する強行偵察に成功し、鮮明な航空写真を沖縄方面航空作戦を担う第6航空軍にもたらした、占領された沖縄の飛行場には、大量のアメリカ軍機が配備されて日本軍の航空作戦の最大の障害となり、陸軍航空隊の重爆撃機や海軍航空隊の陸上攻撃機、夜間戦闘機隊芙蓉部隊による執拗な攻撃が行われていくこととなった。
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