飛行部隊の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 14:40 UTC 版)
「出撃した日本の特攻隊の一覧#日本本土近海・沖縄」、「菊水作戦#経過」、および「沖縄戦#沖縄本島へのアメリカ軍の上陸」も参照 1944年12月、大本営は教導航空軍司令部を解散し、第六航空軍司令部を編成した。本土方面対上陸作戦をめぐる航空作戦の激化を考慮して、内地にも航空作戦軍をもうけていた。第六航空軍は沖縄作戦の切迫した3月10日、福岡に前進した。これに伴って、南九州には来るべき沖縄決戦に備えて飛行部隊が続々と結集した。 都城の両飛行場には土井直人中佐の指揮する第100飛行団、四式戦(疾風)装備の飛行第101、第102戦隊および、特攻2隊が展開することになった。西飛行場が初めて空襲を受けたのは3月18日午前7時頃であった。それは米軍のM・Aミッチャー海軍中将の指揮する空母機動部隊群で、来襲機はグラマンF6Fと、コルセアF4uであったが、敵機は格納庫、兵舎にロケット弾と機銃掃射を集中し約4回に渡って反復攻撃を行った。格納庫は瞬時に大炎上したが機体は全機、掩体壕内にあり無事であった。一方、直掩の高射機関砲は撃墜2機を報じた。こうした敵艦載機の襲撃下にも南九州の航空戦備は急速に進められた。 米軍が慶良間諸島に上陸した3月26日、東飛行場には第101戦隊の20機、西飛行場には第102戦隊の20機および第22振武隊が進出していた。3月31日、常陸教導飛行師団飛行隊長であった牟田弘國少佐が、新たにこの飛行団長として着任した。
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