沖縄本島の祖霊信仰
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沖縄本島は祖先崇拝の盛んな土地として知られている。また、御嶽の節にあるとおり、氏祖は村落の守護神とされる。 桜井徳太郎は沖縄本島独特の他界観念として後生(グソー)観をあげ、その一例として久高島の後生観を取り上げている。それによれば、久高島では墓地の入口を新後生(ミーグソー)と称して、そこを生界と死界との境界だとし、7年後の洗骨が終わると死者は真の後生へ赴いて神へ昇化すると久しく観念していた。新後生においては、死者は生前と同じ生活様式をとると考えられているため、新後生の墓廓は現世の家屋と同じ形態を備えている。鳥越憲三郎は沖縄人の墓造りに関し、死後の生活に対する明るい観念が墓造りに対する悦びの感情を抱かせていると推察し、死後も出来るだけ居心地の良い住家でありたいという念願から私財のほとんどを惜しげなく投じて墓を造るのだと述べている。墓造りに多額の費用を投じることに関しては、桜井徳太郎も1970年頃の沖縄本島北東部の調査の際、部落の人々が豪壮で大規模な墓造りを競っている傾向を報告している。王族や士族の亀甲墓は17世紀後半から主として本島で普及する。最古のものは護佐丸の墓(1686年)や伊江御殿墓(1687年)など。 現在、沖縄本島における葬制は火葬となっているが、太平洋戦争前には伝染病患者の死などの特別な場合を除き土葬がおこなわれていた。また、伊波普猷の報告にあるとおり、明治時代までは風葬がおこなわれていた。風葬は明治時代に行政から禁止されたが、久高島では1960年代まで行われていたことが確認されている。 また風葬に近い葬法では、1970年代まで宮古島で洞穴葬がおこなわれていた。 風葬において遺体はまず崖(パンタ)や洞窟(ガマ)に置かれて自然の腐敗を待ち、3年後・5年後・7年後など適当な時期を見て洗骨して納骨する。日本本土では薄葬令(646年)により庶民も定まった墓地に葬むる慣習が定着したのに比して、琉球弧において崖や洞窟(ガマ)は古来、現世と後生の境界の世界とされ、聖域であると同時に忌むものとされてきた。祖霊を崇める一方で、「死」はあくまで「穢れ」と捉えられているのである。 また折口信夫「琉球の宗教」によれば、琉球では自分の祖先でも死後七代目には必ず神になると信じられていたと述べ、『中山世鑑』ではこれを「七世生神(しちせいしょうしん)」と書いたと紹介している。さらに「琉球の宗教」によれば、琉球では人が死ぬと屍体を洞窟の中に投げ込んで、その口を石で固めてその隙間を塗りこむ風習があったが、七代経つと屍体を入れるのをやめて別の場所に新墓所を設け、それまで屍体を入れていた洞窟を「神墓(くりばか)」と称する。「神墓」は「拝所(をがん)」となり、時代を経るに従って他の人々も拝するようになる、と琉球では祖霊が神になることを紹介している。 死生観として、魂は神のいる異界ニライカナイ(後述)より来て、死んでまたそこへ帰り、守護神となって集落へ還ってくると考える。このため祖霊を非常に敬い、死後の世界を後生(グソー)と称して、これも非常に現世や生者と近しいものとしてとらえている。また、琉球における仏教の影響から旧暦8月には祖霊が集落、家族のもとへ帰ってくるという、お盆の祭事を行う。なお、祭事の日取りは旧暦を用いる。
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