沖縄方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 04:30 UTC 版)
玄作戦終了後も、伊47は第15潜水隊に所属していた。内海西部で回天戦の準備をおこなった。2月3日付で伊47航海長は重本大尉から菊池貞彦大尉に交代した。米軍の沖縄方面来攻にそなえ、日本海軍は残存潜水艦を南西方面に配備した(沖縄戦)。3月28日、回天特別攻撃隊・多々良隊(伊44、伊47、伊56、伊58)の1隻として伊47は光を出港し、南西諸島方面を目指した。同日1600、日向灘を航行中に米艦載機を発見して急速潜航する。日没後に浮上するも、近くを米艦載機2機が哨戒をしており爆雷攻撃を受ける。伊47は損傷しながらも離脱に成功した。公式記録では3月29日に.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯29度45分 東経131度35分 / 北緯29.750度 東経131.583度 / 29.750; 131.583地点で米機動部隊と遭遇して制圧攻撃を受け、回天と重油タンクに被害を受けて帰投を命じられた。同29日0230、種子島東方20浬地点付近で浮上して充電中、前方に米哨戒艇2隻を発見し急速潜航をするも、メインバラストタンクのベント1基の操作に失敗、艦首が50度下に傾いた状態で深度80mまで沈下してしまう。それでも、乗員の必死の操作で深度60mの地点で艦を水平に戻すことができた。それから11時間後に潜望鏡観測をしたところ、燃料漏れを起こしているのを発見。一旦本土に戻るべく浮上したものの、米哨戒機2機に発見されてしまう。伊47はすぐに潜航したものの20発以上の爆雷攻撃をうけて損傷してしまう。それでもなんとか敵をやりすごした後に浮上。31日に鹿児島県内之浦に移動して損害を調査したところ、不発の爆雷1発が司令塔に残留しているのを発見した。4月1日、内海西部に帰投し、多々良隊からのぞかれた。 4月17日、修理を終えた伊47は呉を出港して光に移動。20日には光から平生に移動する。同20日付で、伊47と伊53の水雷長を交代する人事がおこなわれ、伊47水雷長は川本昇大尉となった。22日、回天特別攻撃隊・天武隊(伊36、伊47、伊53)の1隻として平生を出港し、沖縄方面に進出する。犠牲の大きい泊地襲撃が取止められ、この天武隊から洋上作戦に切り替えられた。航海中の4月25日付で、潜水艦長交代の人事がおこなわれた。26日、沖縄南東200浬地点付近で右舷ディーゼル機関が故障。2日かけて修理を行った。27日、通常魚雷攻撃により艦種不明2隻の撃沈を報告した。5月1日深夜、伊47は沖大東島南南西100浬地点付近で35km離れた位置に輸送船団がいるのを電探で発見。追跡を行い、4000mまで近づいたところで魚雷4本を発射、3つの爆発音を聴取した。2日0900、伊47は沖大東島南南西160浬地点付近で大型タンカーと護衛の2隻の駆逐艦を発見し、回天の発進準備を行う。1100に1番艇の柿崎実中尉(海兵72期)艇を発進。その5分後に4号艇の山口重雄 一兵曹艇を発進。それから15分後に爆発音がした。その爆発は激しく、伊47は揺さぶられた。その5分後に爆発音を聴取。1120には新たに聴音でフレッチャー級駆逐艦2隻を発見し、2番艇の古川七郎 上等兵曹艇を発進。回天の推進器音は20分後に途絶えたが、それから28分後には高速回転する回天の推進器音がして、まもなく爆発音がした。爆発音の後、伊47はこの海域からすぐに離脱した。一連の攻撃で、大型駆逐艦や輸送船の撃沈を記録した。7日、伊47は英リアンダー級軽巡洋艦を電探で発見し回天の発進準備を行うも、6番艇の新海菊雄 二飛曹艇と3番艇の横田寛 二飛曹艇は電話機の不調により通信ができなくなっていたため、5番艇の前田肇中尉艇を発進。24分後、爆発音を聴取。この日の回天戦で、特設航空母艦もしくは巡洋艦1隻撃沈を記録した。12日、光に到着して回天と搭乗員、整備員を降ろしたあと、翌13日に呉に帰投した。5月1日から7日までの作戦で、伊47は回天戦と通常魚雷により、輸送船1、巡洋艦1、駆逐艦2、艦種不明2隻、計6隻の撃沈を報告した。折田は輸送船2、駆逐艦1、巡洋艦1を攻撃したと回想している。戦後の調査によれば、該当する戦果はなかった。同日、鈴木正吉少佐が艦長に着任。折田艦長時代の伊47は、12基の回天戦をおこなった。6月5日、連合艦隊は天武隊(伊47)の戦果を告示した。 7月17日、伊47は呉を出港して光へ移動し、回天と搭乗員、整備員を乗せる。18日に潜航試験を行った。回天特別攻撃隊多聞隊(伊53、伊58、伊47、伊367、伊366、伊363)の1隻として、沖縄~ルソン島~パラオ方面に出撃することになった。19日、伊47は内海西部を出撃した。7月21日、北緯26度13分 東経127度50分 / 北緯26.217度 東経127.833度 / 26.217; 127.833地点で輸送船(7,067トン)が回天による被害を受け、伊47の攻撃であった可能性がある。29日にはフィリピン方面に進出する。30日、伊47は台風の中に入ったため、浮上充電をしながら台風が去るのを待った。8月1日、1番艇の加藤正中尉(海機54期)艇が波にさらわれて流出。他の回天も浸水する被害を受けた。搭乗員はいずれも乗っていなかったため人的被害はなかった。8月11日、内海西部に帰投した。13日、光に到着して回天と搭乗員、整備員を降ろしたあと、翌14日に呉に帰投した。翌15日、終戦を迎えた。
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