沖縄本島北部の戦いとは? わかりやすく解説

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沖縄本島北部の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)

沖縄戦」の記事における「沖縄本島北部の戦い」の解説

日本軍32軍の作戦計画では本島南部主戦場とすることになっていたため、北部国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯拠って日本軍抵抗したが、4月18日本部半島突端達し22日までに制圧完了した。 この戦闘での第6海兵師団損害は、戦死行方不明243人、負傷1061人であった。なお、北部住民避難地域指定されていたため推定8万人住民県内疎開してきており、アメリカ軍管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍北上後に山中逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった。 4月16日に、アメリカ軍77歩兵師団は、本島北西海上に浮かぶ伊江島飛行場海上防空用のレーダーサイト設置するため上陸した伊江島には、独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2,000人(約半数現地召集特設部隊)が配置されていた。島民人口8,000人のうち5,000人が残留していた。日本軍島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島占領された。アメリカ軍によれば日本側は民間人多数を含む4,706人が戦闘により死亡し、3人が捕虜となったアメリカ軍218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、中戦車60両・自走砲6両が被撃破(うち完全喪失は5両)などの大きな物的損害受けたアメリカ軍戦死者には、前年ピューリッツァー賞受賞した従軍記者アーニー・パイル含まれていた。生き残った住民は、渡嘉敷島移された。 日本軍伊江島保有していた陸軍飛行場は、3月のうちに徹底的に破壊のうえ放棄されていた。アメリカ軍復旧作業進め5月10日までに最初の戦闘機隊を伊江島飛行場進出させた。滑走路・誘導路レーダーサイト完成したのは5月中旬で、その後工事続き6月14日までに3個の戦闘機隊と1個の夜間戦闘機隊が展開している。

※この「沖縄本島北部の戦い」の解説は、「沖縄戦」の解説の一部です。
「沖縄本島北部の戦い」を含む「沖縄戦」の記事については、「沖縄戦」の概要を参照ください。

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