特攻対策
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1944年11月24日から26日までアメリカ本土で、アメリカ海軍省首脳、太平洋艦隊司令部、第三艦隊司令部による特攻対策会議がおこなわれた。その席で、アメリカ海軍諜報部航空諜報部が特攻の成功の要因を「日本軍はアメリカ軍がこれまで遭遇した最も新しく、かつ最も恐るべき問題を提起した。この捕捉しがたい接近と自殺攻撃は、ジャップの狂信的精神のみならず、それより遥かに危険な事には、防空や航空管制のレーダーと複雑性について完全に理解しているパイロットや戦闘要員が(特攻)志願している事である。」と分析した。海軍省のトム・ブラックバーン少佐は「カミカゼに対する最も有効な手段は、敵がパイロット切れになることだ」とも述べており、特攻作戦開始当初のアメリカ海軍の苦悩ぶりがうかがえる。 その後も、第三次ソロモン海戦で勝利に貢献した、レーダー砲術の権威ウィリス・A・リー中将を責任者とする特攻対策研究の特殊部隊を編成するなど、アメリカ軍は特攻対策に大きな力を注いだ。 整備された主な航空特攻対抗策としては以下が挙げられる。 レーダーピケットライン 戦闘機による迎撃 射撃指揮レーダーや近接信管を駆使した対空砲火 回避運動 特攻機の出撃基地に対する攻撃 沖縄戦において、これらの特攻対策が実現されて一定の効果を示したが、十分なものではなく、結果的に多数の特攻機がアメリカ軍の警戒網を突破してアメリカ軍艦船を攻撃した。沖縄戦で特攻機により受けた大きな損害によって、戦後にアメリカ海軍の防空戦術が大きく見直されることとなった。
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