特攻命令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:23 UTC 版)
藤枝で再編成を進めていた芙蓉部隊であったが、戦局の悪化により、フィリピン再進出は中止された。本土防衛のため錬成途中の芙蓉部隊であったが、硫黄島にアメリカ軍機動部隊が侵攻してくると、その迎撃のため、美濃部は1945年2月17日に芙蓉部隊に出撃を命じた。その出撃で美濃部は部下に特攻を指示し、別れの盃(別盃)が交わされている。出撃を命じられた鞭杲則少尉によれば、「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」と命令され、搭載機の破壊と発艦阻止、特攻機突入による火災で味方機に敵の位置を知らせるという狙いがあったという。河原政則少尉によれば、指揮所に行くと、志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿の中にあり、美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者に「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じ、河原らは美濃部と基地司令の市川大佐とひとりひとり握手を交わして出撃したが、結局出撃した全機が敵を発見できず引き返した。帰還した攻撃機を美濃部と市川が迎えたが、攻撃隊はアメリカ軍艦載機に追尾されており、出撃機が着陸するや銃爆撃を加えてきた。美濃部と市川は敵機の機影を見ると近くの防空壕に飛び込んだが、帰還したばかりの隊員たちは防空壕に逃げ込む暇もなく、近くの畑や小川に架かる橋の下に逃げ込むのがやっとであった。アメリカ軍艦載機は好き放題に攻撃して、芙蓉部隊は出撃機の彗星6機と零戦1機の全機が破壊され、防空壕に逃げ込めなかった2名の搭乗員と2名の整備兵が戦死し、飛行場設備の多くが撃破されてしまったが、間一髪のところで防空壕に飛び込んだ美濃部は無事であった。しかし、一度に7機もの作戦機を喪失した芙蓉部隊は再出撃することができなくなった。 空襲の後始末に追われる芙蓉部隊の隊員の間に、芙蓉部隊が第二御盾隊との名称で特攻出撃するという噂が広まった。2月17日に美濃部が特攻命令を下したことにより、他の航空隊での特攻隊編成指示の話を一部の隊員が早合点して、芙蓉部隊に特攻命令が下ったとの噂が広まったものという指摘もある。芙蓉隊員らは激情と不安を抑えきれず、酒宴を開いて夜の基地内に大きな歌声を響かせた。その騒ぎを巡検の当直士官も鎮めることができなかった。そこで、この噂の原因ともなった特攻命令を下した美濃部は、騒ぎを鎮めるため、搭乗員を集合させると「俺はお前らを特攻で絶対に殺さん」と約束している。美濃部の約束を聞いてまもなく芙蓉部隊の騒ぎは収まったが、坪井飛曹長は「すごいことを言う人だと思ったが、同時に気が抜けた」と証言している。実際の第二御盾隊は第六〇一海軍航空隊で編成され、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が硫黄島を支援するため出撃し、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガ大破、死傷者800名超など大戦果を挙げた。 1945年2月下旬、連合艦隊 もしくは三航艦司令部による沖縄戦の研究会が実施された。その会議で説明のあった練習機の特攻に対する反論 あるいは地上撃破を避けるための作戦機秘匿の提案を行った。(詳細は#拒否で後述) 第3航空艦隊司令の寺岡は、美濃部が指揮をとりやすくなるよう、3月5日に芙蓉部隊の901飛行隊と812飛行隊の2個飛行隊を752航空隊から131航空隊に編入し、美濃部を131空の飛行長に任じた。飛行長の肩書がつくと、航空隊の飛行機と整備科の地上指揮をとれるので、これまでの最先任飛行隊長という立場と比較すると格段に権限が強化された。3月20日には804空も131空に編入され、芙蓉部隊の3個飛行隊が正式に同一航空隊となり、名実ともに芙蓉部隊が統一運用されるようになった。131空の司令は浜田武夫大佐であったが、浜田が芙蓉部隊を指揮することはなく、芙蓉部隊の3飛行隊は131空から実質的に独立し指揮は美濃部に一任された 。美濃部は、海軍省人事局や海軍航空本部からも厚遇されて、若い優秀な搭乗員を優先的に芙蓉部隊に配置してもらっている。そのため芙蓉部隊は補充人員が定員を大幅に上回ることとなり、指揮官の美濃部が新入隊員を把握できないほどであった。
※この「特攻命令」の解説は、「美濃部正」の解説の一部です。
「特攻命令」を含む「美濃部正」の記事については、「美濃部正」の概要を参照ください。
- 特攻命令のページへのリンク