海上特攻隊突入計画
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連合艦隊司令部では、沖縄戦以前から神重徳連合艦隊首席参謀が海上特攻の実施を主張していた。神は、つねづね局地戦に大型艦をうまく使えるとの信念をもち、沖縄上陸戦の攻防にも参加させるべきと意見を抱いていた。沖縄戦における海上特攻作戦は、4月3日の航空総攻撃決定を受けて、神奈川県横浜市日吉の連合艦隊司令部(慶應義塾大学日吉キャンパス)で決定した。連合艦隊司令長官である豊田副武大将は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は半分もなし。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わず残しては、現地将兵を見殺しにする。だが勝ち目のない作戦で大きな犠牲を払うのも大変苦痛。しかし多少の成功の算あれば、できることはなんでもやらねばならぬ」という気持ちで決定したと回想している。 神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長である富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで、燃料は片道でもよいということで、小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。神の提案を及川軍令部総長は黙って聞いていたが、小沢は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。 沖縄突入という具体案は、草鹿が鹿屋に出かけている間に神が計画したものであった。神の戦艦(大和)突入計画に対し、草鹿は機会を見る必要があるとなだめていた。当時、連合艦隊は神奈川県横浜市の日吉キャンパスにあり、草鹿は沖縄戦指導のため九州に出張中であった。そこへ神が草鹿宛に電話をかけ、応対に出た三上に対し、第一遊撃部隊による沖縄突入作戦決定を伝えた。神は草鹿を通さずに豊田に直接決裁をもらってから「参謀長、意見はどうですか?」と電話で話したので、草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。日吉と鹿屋の間ではげしい議論になったとき、神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」ということを強調していた。淵田(草鹿とともに九州出張中)も「神参謀が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という(昭和24年4月22日、マッカーサー司令部歴史課係官の質問に対し)。淵田の意見に対し、三上(草鹿とともに九州出張中)は「当時の連合艦隊司令部の空気などから考えて、神参謀の発意だけで、作戦が採用されるはずなし。水上部隊をも挙げて総攻撃をおこなうならこういう方法しかない…と提案したのが神参謀であったかもしれない」と回想している。 神は第二艦隊参謀として大和に乗艦することを希望したが、参謀副長高田利種少将は却下した。神が三上に語ったこの作戦決定の理由は、以下のとおり。3月30日、昭和天皇に対し及川が沖縄方面のアメリカ軍に対し特攻作戦を行うことを奏上した。これに対し昭和天皇は、「総攻撃は航空部隊だけか。海軍にはもう艦がないのか。海上部隊はないのか」と(三上によれば一般的な)質問を行い、それに対して「海軍の全力を投じて作戦を行う」と及川が答えたことが決定の理由だという。このやりとりは宇垣(九州航空基地所在)の『戦藻録』4月7日の大和沈没時の日記で述べられているが、戦後の小沢は「宇垣は田舎にいてよくそんなことがわかるね」と評している。なお、三上によれば昭和天皇の「お言葉」は梅津への直言か、神が自分で付け加えた言葉かも定かでないという。数日後、昭和天皇は沖縄方面への逆上陸作戦を提案することになった。 神は草鹿に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は「大和」の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に草鹿は「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得した(三上の回想による)。 この作戦は、大和以下の艦隊を沖縄本島に突入させて艦を座礁させたうえで砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついた後は乗員が陸戦隊として敵部隊へ突撃をかけるという生還を期さない特攻作戦であった 4月5日、伊藤は以下の命令を受けた。 「【電令作603号】(発信時刻13時59分)第一遊撃部隊(大和、二水戦〈矢矧及駆逐艦六隻〉ハ海上特攻隊トシテ八日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシ、急遽出撃準備ヲ完成スベシ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ」 「【電令作607号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍第十方面軍第三十二軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ」 「【電令作611号】(発信時刻15時)一 帝国海軍部隊及第六航空軍ハX日(六日以後)全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船ヲ攻撃撃滅セントス二 陸軍第八飛行師団ハ右ニ協力攻撃ヲ実施ス 第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始 敵陸上部隊ノ掃滅ヲ企図ス三 海上特攻隊ハH日黎明豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇竝ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス アメリカ軍の制空権下における航空機の援護のない水上部隊の特攻を、当初から悲観していたものもいた。沖縄第三十二軍司令官である牛島満中将は、海上特攻実行と陸軍総攻撃を求める機密電報を投げ捨てたという。米内海軍大臣は神に対し「成功したら奇蹟だ」と述べる。これに対する神の答えは「戦わずに沈められるより、戦って沈んだ方が良い」であった。大和に華々しい最後を飾らせたいという考えは、神だけでなく、海軍首脳の誰もが抱いていた可能性も指摘される。たとえば宇垣は作戦そのものには反対しつつも「(沖縄日本陸軍が総攻撃を行うので)決戦ならば之もよからん」と諦めており、草鹿も「いずれその最期を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所に」と述べている。高田も「大和を特攻に使わないで戦争に負けたら、次の日本は作れない」と考え、神の提案に内心では賛成だったという。 能村次郎(当時、大和副長)によれば、午後の日課中に有賀艦長から特攻出撃命令書を受け取り、すぐに当直配置員を除く全乗組員2,500名を大和前部一番主砲塔付近に整列させて特攻出撃を伝達した。海上特攻は否応なしの至上命令であったという。そして、第二艦隊に配属されたばかりの士官候補生や老兵・傷病兵を退艦させる。特に第七十四期士官候補生達(大和49名、矢矧28名)は4月3日夕刻に大和や矢矧に乗艦したばかりで、空母葛城や天城にうつされた(4月10日、12日附で正式に転勤発令)。夜、酒保が開かれて宴会が行われ、有賀も酒宴に加わった。若手士官の居室で吉田満著『戦艦大和ノ最期』で描かれるような出来事があったかどうかについて、生還した士官達の証言は定まっていない。伊藤は妻子に向け手紙を書いていた。伊藤の息子は航空機搭乗員として特攻が予定されており、伊藤は副官に「息子は特攻だ。もう生きていても良いことがない」と語ったことがある。 大和とは別地点に停泊していた軽巡洋艦矢矧では、水上特攻命令受領を受けて第二水雷戦隊隷下の駆逐隊司令や駆逐艦長が集まり、二水戦司令官古村啓蔵少将のもとで会議が開かれた。全員が驚き、駆逐艦初霜の酒匂雅三艦長は「豊田副武連合艦隊司令長官がなぜ陣頭指揮をしないのか」と批判したという。他の駆逐隊司令や艦長も同意見であったが、大和での第二艦隊司令部作戦会議では伊藤が「この命令は我々に死所を与えたものである。死んでこいということである」と発言し、第二水雷戦隊各艦も命令に従い出撃準備に着手した。この後、各艦で酒宴が開かれた。司令や艦長達は矢矧の司令官公室で酒宴を開いた。駆逐艦長達は厳しい戦いを覚悟しつつ「自分の艦は大丈夫」という雰囲気があったという。4月6日午前6時、矢矧以下の第二水雷戦隊が徳山沖停泊中の大和に合流した。 当初、中央からの指示により第一遊撃部隊の搭載燃料は片道分のみ(2,000トン)を搭載予定となっていた。だが「人が死ににゆくのに腹一杯食わさんでどうする」と各艦長が抗議、連合艦隊護衛総隊割り当て分の一部及び基地補給班が員数を集め、呉鎮守府や呉軍需部長である島田藤治郎少将に掛け合い、第二艦隊全ての艦艇の燃料を確保した。徳山にある燃料タンクの底に残っていた帳簿外の重油までもかき集めたという。また出撃しない駆逐艦から燃料と弾薬を出撃艦艇に移譲している。各艦に補給された燃料は満タンの量ではなかったが、巡航速度であれば沖縄本島と呉との間を4往復はできるだけの量はあったという説もある[信頼性要検証]。詳細は、大和4,000トン、矢矧1,250トン、冬月900トン(佐世保到着時残量650トン)、涼月900トン(400トン)、磯風599トン、浜風599トン、雪風588トン(170トン)、朝霜599トン、霞540トン、初霜500トン(300トン)。満州の大豆からとった油が混ざっているので馬力が2割下がったという雪風機関長の異説もある。海上護衛総司令部参謀である大井篤大佐によれば、大和と第二水雷戦隊のために輸送船の護衛艦の燃料割り当てが割かれたという。初霜艦長である酒匂は「燃料を満タンにしてくれたおかげで回避行動ができた」と回想している。なお、連合艦隊機関参謀である小林は「予定どおりの燃料(片道分)を補給した」と報告したので、大本営海軍部(軍令部)と連合艦隊司令部は「第一遊撃部隊は片道燃料で出撃した」と思っていた。陸軍第三十二軍司令官牛島満中将は、沖縄方面の制空権の状況から「ご厚志は感謝するが、時期尚早と考察するので、海上特攻の出撃は取止められたし」と電報した。 日本側はアメリカ軍の機動部隊が沖縄東方に存在することを前提に計画を立てていた。7日早朝大隅半島を通過し、沖縄突入は8日黎明を予定。アメリカ機動部隊出現の場合は一旦計画を中止して北上し、基地航空兵力の特攻作戦成果を待って反転突入を企図した。日本海軍の計画について古村は「出撃時期と到着時期を固定してただ走れば、途中の壊滅は必至である」と回想した。
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