海上特攻隊突入計画とは? わかりやすく解説

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海上特攻隊突入計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 20:51 UTC 版)

坊ノ岬沖海戦」の記事における「海上特攻隊突入計画」の解説

連合艦隊司令部では、沖縄戦以前から神重徳連合艦隊首席参謀海上特攻実施主張していた。神は、つねづね局地戦大型艦をうまく使えるとの信念をもち、沖縄上陸戦攻防にも参加させるべきと意見抱いていた。沖縄戦における海上特攻作戦は、4月3日航空総攻撃決定受けて神奈川県横浜市日吉連合艦隊司令部慶應義塾大学日吉キャンパス)で決定した連合艦隊司令長官である豊田副武大将は「大和有効に使う方法として計画成功率半分もなし。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わず残しては、現地将兵見殺しにする。だが勝ち目のない作戦大きな犠牲を払うのも大変苦痛。しかし多少成功の算あれば、できることなんでもやねばならぬ」という気持ち決定した回想している。 神は軍令部との交渉入ったが、作戦課長である富岡定俊少将反対であった富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた大和九州方面陽動させて敵の機動部隊釣り上げ基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄突入させることは反対だ第一燃料がない。本土決戦望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢立ち至った場合艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで、燃料片道でもよいということで、小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。神の提案及川軍令部総長黙って聞いていたが、小沢は「連合艦隊長官そうしたいという決意ならよかろう」と直接許可与えた戦後小沢は「全般空気よりして、その当時今日も当然と思う。多少成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。 沖縄突入という具体案は、草鹿鹿屋に出かけている間に神が計画したものであった。神の戦艦大和突入計画対し草鹿機会を見る必要があるなだめていた。当時連合艦隊神奈川県横浜市日吉キャンパスにあり、草鹿沖縄戦指導のため九州出張であった。そこへ神が草鹿宛に電話をかけ、応対出た三上対し第一遊撃部隊による沖縄突入作戦決定伝えた。神は草鹿通さず豊田直接決裁もらってから「参謀長意見どうですか?」と電話話したので、草鹿は「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。日吉鹿屋の間ではげしい議論になったとき、神は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないかということ強調していた。淵田(草鹿とともに九州出張中)も「神参謀発意直接長官採決得たもの。連合艦隊参謀長不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という(昭和24年4月22日マッカーサー司令部歴史係官質問対し)。淵田の意見対し三上草鹿とともに九州出張中)は「当時連合艦隊司令部空気などから考えて、神参謀発意だけで、作戦採用されるはずなし。水上部隊をも挙げて総攻撃をおこなうならこういう方法しかない…と提案したのが神参謀であったかもしれない」と回想している。 神は第二艦隊参謀として大和乗艦することを希望したが、参謀副長高田利種少将却下した。神が三上語ったこの作戦決定理由は、以下のとおり3月30日昭和天皇対し及川沖縄方面アメリカ軍対し特攻作戦を行うことを奏上した。これに対し昭和天皇は、「総攻撃航空部隊だけか。海軍にはもう艦がないのか。海上部隊はないのか」と(三上によれば一般的な質問行い、それに対して海軍全力投じて作戦を行う」と及川答えたことが決定理由だという。このやりとり宇垣九州航空基地所在)の『戦藻録4月7日大和沈没時の日記で述べられているが、戦後小沢は「宇垣田舎にいてよくそんなことがわかるね」と評している。なお、三上によれば昭和天皇の「お言葉」は梅津への直言か、神が自分付け加えた言葉かも定かでないという。数日後昭和天皇沖縄方面への逆上作戦提案することになった。 神は草鹿大和説得に行くように要請し草鹿は「大和」の第二艦隊司令部訪れ長官伊藤作戦命令伝達説得行った。なかなか納得しない伊藤草鹿は「一億特攻の魁となって頂きたいと言うと伊藤は「そうか、それならわかった」と即座に納得した三上回想による)。 この作戦は、大和以下の艦隊沖縄本島突入させて艦を座礁させたうえで砲台として砲撃行い弾薬が底をついた後は乗員陸戦隊として敵部隊突撃をかけるという生還を期さない特攻作戦であった 4月5日伊藤は以下の命令受けた。 「【電令作603号】(発信時刻1359分)第一遊撃部隊大和二水戦〈矢矧駆逐艦六隻〉ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄突入目途トシ急遽出撃準備完成スベシ。部隊行動掃海面の対潜掃蕩実施させよ。31戦隊駆逐艦九州南方海面まで対潜対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官部下航空機九州南方南東海面索敵対潜警戒を展開せよ」 「【電令作607号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺艦船攻撃行え陸軍第十方面第三十二軍もこれに呼応し攻撃実施す。7日黎明豊後水道出撃8日黎明沖縄西方海面突入せよ」 「【電令作611号】(発信時刻15時)一 帝国海軍部隊及第航空軍ハX日(六日以後)全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船攻撃撃滅セントス二 陸軍第八飛行師団ハ右ニ協力攻撃実施第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃開始陸上部隊掃滅企図三 海特攻隊ハH日黎明豊後水道出撃 Y日黎明沖縄西方海面突入水上艦艇竝ニ輸送船団攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス アメリカ軍制空権下における航空機援護のない水上部隊特攻を、当初から悲観していたものもいた。沖縄第三十二軍司令官である牛島満中将は、海上特攻実行陸軍総攻撃求め機密電報投げ捨てたという。米内海軍大臣は神に対し成功した奇蹟だ」と述べる。これに対する神の答えは「戦わず沈められるより、戦って沈んだ方が良いであった大和華々しい最後を飾らせたいという考えは、神だけでなく、海軍首脳誰もが抱いていた可能性指摘される。たとえば宇垣作戦そのものには反対しつつも「(沖縄日本陸軍総攻撃を行うので)決戦ならば之もよからん」と諦めており、草鹿も「いずれその最期覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所に」と述べている。高田も「大和特攻使わない戦争負けたら、次の日本作れない」と考え、神の提案内心では賛成だったという。 能次郎当時大和副長によれば午後日課中に有賀艦長から特攻出撃命令書を受け取り、すぐに当直配置員を除く全乗組員2,500名を大和前部一番主砲塔付近に整列させて特攻出撃伝達した海上特攻否応なし至上命令であったという。そして、第二艦隊配属されたばかり士官候補生老兵傷病兵を退艦させる。特に第七十四士官候補生達(大和49名、矢矧28名)は4月3日夕刻大和矢矧乗艦たばかりで、空母葛城天城うつされた(4月10日12日附で正式に転勤発令)。夜、酒保開かれ宴会が行われ、有賀酒宴加わった若手士官居室吉田満『戦艦大和ノ最期』描かれるような出来事あったかどうかについて、生還した士官達の証言定まっていない。伊藤妻子に向け手紙書いていた。伊藤息子航空機搭乗員として特攻予定されており、伊藤副官に「息子特攻だ。もう生きていても良いとがない」と語ったことがある大和とは別地点停泊していた軽巡洋艦矢矧では、水上特攻命令受領受けて第二水雷戦隊隷下駆逐隊司令駆逐艦長集まり二水司令官古村啓蔵少将のもとで会議開かれた全員驚き駆逐艦初霜酒匂雅三艦長は「豊田副武連合艦隊司令長官がなぜ陣頭指揮をしないのか」と批判したという。他の駆逐隊司令艦長同意であったが、大和での第二艦隊司令部作戦会議では伊藤が「この命令は我々に死所与えたのである死んでこいということである」と発言し第二水雷戦隊各艦も命令従い出撃準備着手したこの後、各艦で酒宴開かれた司令艦長達は矢矧司令官公室酒宴開いた駆逐艦長達は厳し戦い覚悟しつつ「自分の艦は大丈夫」という雰囲気があったという。4月6日午前6時矢矧以下の第二水雷戦隊徳山停泊中の大和合流した当初中央からの指示により第一遊撃部隊搭載燃料片道分のみ(2,000トン)を搭載予定となっていた。だが「人が死ににゆくのに腹一杯食わさんでどうする」と各艦長抗議連合艦隊護衛総隊割り当て分の一部及び基地補給班が員数集め呉鎮守府呉軍部長である島田藤治少将掛け合い第二艦隊全ての艦艇燃料確保した徳山にある燃料タンクの底に残っていた帳簿外の重油までもかき集めたという。また出撃しない駆逐艦から燃料弾薬出撃艦艇移譲している。各艦に補給され燃料満タンの量ではなかったが、巡航速度であれば沖縄本島と呉との間を4往復できるだけの量はあったという説もある[信頼性検証]。詳細は、大和4,000トン矢矧1,250トン冬月900トン佐世保到着残量650トン)、涼月900トン400トン)、磯風599トン浜風599トン雪風588トン170トン)、朝霜599トン540トン初霜500トン300トン)。満州大豆からとった油が混ざっているので馬力が2割下がったという雪風機関長異説もある。海上護衛総司令部参謀である大井篤大佐によれば大和第二水雷戦隊のために輸送船護衛艦燃料割り当て割かれたという。初霜艦長である酒匂は「燃料満タンにしてくれたおかげで回避行動ができた」と回想している。なお、連合艦隊機関参謀である小林は「予定どおり燃料片道分)を補給した」と報告したので、大本営海軍部(軍令部)と連合艦隊司令部は「第一遊撃部隊片道燃料出撃した」と思っていた。陸軍第三十二軍司令官牛島満中将は、沖縄方面制空権状況から「ご厚志感謝するが、時期尚早考察するので、海上特攻出撃は取止められたし」と電報した。 日本側はアメリカ軍機動部隊沖縄東方存在することを前提計画立てていた。7日早朝大隅半島通過し沖縄突入8日黎明予定アメリカ機動部隊出現場合は一旦計画中止して北上し基地航空兵力の特攻作戦成果待って反転突入企図した。日本海軍計画について古は「出撃時期到着時期固定してただ走れば途中壊滅必至である」と回想した

※この「海上特攻隊突入計画」の解説は、「坊ノ岬沖海戦」の解説の一部です。
「海上特攻隊突入計画」を含む「坊ノ岬沖海戦」の記事については、「坊ノ岬沖海戦」の概要を参照ください。

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