海上画派および清末の画家とは? わかりやすく解説

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海上画派および清末の画家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)

中国の絵画」の記事における「海上画派および清末の画家」の解説

虚谷きょこく、1823 - 1896年) - 安徽新安の人。俗姓軍人であったが、太平天国軍と戦うのを嫌い、出家した僧籍ありながら精進せず、もっぱら上海で売画で生活していた。金魚の絵を得意とし、写意花卉画や山水画もある。 趙之謙ちょうしけん、1829 - 1884年) - 浙江会稽紹興)の人。初め字を益甫、号を冷君といったが、後に字を撝叔(きしゅく)と改め、悲盦(ひあん)と号した(「あん」の漢字は上から「今」「酉」「皿」)。太平天国の乱故郷離れ34歳時に妻と娘を失うなど、波乱満ちた生涯送った書家としては、碑学を切り開いた鄧石如影響を受け、篆隷書をよくした。画は揚州八怪、高翰らの影響を受け、華麗な色彩写意花卉画をよくした金石学中国古代の青銅器石刻文字研究する学問)を学んだことから、後述呉昌碩とともに金石学派とも称される呉昌碩ごしょうせき、1844 - 1927年) - 浙江安吉の人。字の昌碩で呼ばれることが多い。名(諱)は初め俊で、後に俊卿と改めた。字は初め香補、後に昌碩と改める。号は缶廬(ふろ)、苦、大聾など。書家篆刻家としても知られ詩書篆刻のいずれをもよくし、中国近代芸術への影響大きかった。絵は30歳代から学び始め40歳代になってようやく自分の絵を人前に出すようになった篆書筆意生かした松竹梅などの花卉画が多いが、山水もある。西泠印社篆刻主とする学術団体)の社長務めた任頤(じんい / にんい、1840 – 1895年) - 浙江紹興の人。初名は潤、字を小といった。後に名を頤、字を伯年と改めた写意花鳥画をよくし、肖像画家としても優れていた。中国絵画には余白題詩書したものが多いが、任頤作品はそうしたものはほとんどみられない。師の任熊と任薫、および任預とともに海上四任」と称された。 黄賓虹こうひんこう、1863 - 1955年) - 民国期代表する山水画家。ヨーロッパ留学経験者で、帰国後は宋元の水墨画西洋水彩画風を加味し作風特色とした。 斉白石せいはくせき、1864 - 1957年) - 湖南湘潭の人。生年は暦の関係で1863年とされることもある。もとの名は純、字は渭清。後に名を璜(こう)、字を瀕生とした。白石は号(または字)で他に借山吟館主者、寄老人などと号した辛亥革命後中国美術協会主席務めた写意画の花鳥を得意とし、徐渭八大山人石濤などに師法した。 弘仁秋景図』(ホノルル美術館龔賢千巌壑図』(リートベルク美術館松石紫藤図』(上海博物館華嵒天山積雪図』(北京故宮博物院) 郎世寧『聚瑞図』(台北故宮博物院

※この「海上画派および清末の画家」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「海上画派および清末の画家」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。

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