海上画派および清末の画家
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「中国の絵画」の記事における「海上画派および清末の画家」の解説
虚谷(きょこく、1823 - 1896年) - 安徽新安の人。俗姓は朱。軍人であったが、太平天国軍と戦うのを嫌い、出家した。僧籍にありながら精進せず、もっぱら上海で売画で生活していた。金魚の絵を得意とし、写意の花卉画や山水画もある。 趙之謙(ちょうしけん、1829 - 1884年) - 浙江会稽(紹興)の人。初め字を益甫、号を冷君といったが、後に字を撝叔(きしゅく)と改め、悲盦(ひあん)と号した(「あん」の漢字は上から「今」「酉」「皿」)。太平天国の乱で故郷を離れ、34歳の時に妻と娘を失うなど、波乱に満ちた生涯を送った。書家としては、碑学を切り開いた鄧石如の影響を受け、篆隷書をよくした。画は揚州八怪の李鱓、高鳳翰らの影響を受け、華麗な色彩の写意の花卉画をよくした。金石学(中国古代の青銅器や石刻の文字を研究する学問)を学んだことから、後述の呉昌碩とともに金石学派とも称される。 呉昌碩(ごしょうせき、1844 - 1927年) - 浙江安吉の人。字の昌碩で呼ばれることが多い。名(諱)は初め俊で、後に俊卿と改めた。字は初め香補、後に昌碩と改める。号は缶廬(ふろ)、苦鉄、大聾など。書家、篆刻家としても知られ、詩書画篆刻のいずれをもよくし、中国近代芸術への影響が大きかった。絵は30歳代から学び始め、40歳代になってようやく自分の絵を人前に出すようになった。篆書の筆意を生かした松竹梅などの花卉画が多いが、山水もある。西泠印社(篆刻を主とする学術団体)の社長も務めた。 任頤(じんい / にんい、1840 – 1895年) - 浙江紹興の人。初名は潤、字を小楼といった。後に名を頤、字を伯年と改めた。写意の花鳥画をよくし、肖像画家としても優れていた。中国絵画には余白に題詩を書したものが多いが、任頤の作品にはそうしたものはほとんどみられない。師の任熊と任薫、および任預とともに「海上四任」と称された。 黄賓虹(こうひんこう、1863 - 1955年) - 民国期を代表する山水画家。ヨーロッパ留学経験者で、帰国後は宋元の水墨画に西洋の水彩画風を加味した作風を特色とした。 斉白石(せいはくせき、1864 - 1957年) - 湖南湘潭の人。生年は暦の関係で1863年とされることもある。もとの名は純芝、字は渭清。後に名を璜(こう)、字を瀕生とした。白石は号(または字)で他に借山吟館主者、寄萍老人などと号した。辛亥革命後は中国美術家協会主席を務めた。写意画の花鳥を得意とし、徐渭、八大山人、石濤などに師法した。 弘仁『秋景図』(ホノルル美術館) 龔賢『千巌万壑図』(リートベルク美術館) 李鱓『松石紫藤図』(上海博物館) 華嵒『天山積雪図』(北京故宮博物院) 郎世寧『聚瑞図』(台北故宮博物院)
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