1945年2月下旬
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「ヴァルター・ツィンマーマン (親衛隊隊員)」の記事における「1945年2月下旬」の解説
1945年2月下旬、ヴァルター・ツィンマーマンSS大佐が所属する第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」(33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne“)は東部戦線のポメラニアに出陣した。 2月22日、「シャルルマーニュ」師団はハマーシュタイン(Hammerstein、現ツァルネ(Czarne))に鉄道輸送され、ドイツ国防軍ヴァイクセル軍集団第2軍麾下の第18山岳軍団(XVIII. Gebirgs-Korps)に配属された。 ドイツ国防軍/ヴァイクセル軍集団/第2軍/第18山岳軍団(XVIII. Gebirgs-Korps):1945年2月22日 ポメラニア 軍団司令官 フリードリヒ・ホホバウム歩兵大将(Gen.d.Inf. Friedrich Hochbaum) ドイツ陸軍第32歩兵師団(32. Infanterie-Division):ハンス・ベック=ベーレンス陸軍中将(Gen.Lt. Hans Boeckh-Behrens) 第15SS所属武装擲弾兵師団(ラトビア第1):カール・ブルクSS上級大佐(SS-Obf. Karl Burk) 第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」(フランス第1):エドガー・ピュオ武装上級大佐(W-Obf. Edgar Puaud) 2月24日朝、ハマーシュタイン基地においてフランスSS部隊総監グスタフ・クルケンベルクSS少将は「シャルルマーニュ」師団の主要な将校 師団長 エドガー・ピュオ武装上級大佐(W-Obf. Edgar Puaud) 師団参謀長 ジャン・ド・ヴォージュラ武装少佐(W-Stubaf. Jean de Vaugelas) 第57SS所属武装擲弾兵連隊長 ヴィクトル・ド・ブルモン武装大尉(W-Hstuf. Victor de Bourmont) 第58SS所属武装擲弾兵連隊長 エミール・レイボー武装少佐(W-Stubaf. Émile Raybaud) と共に作戦会議を催した(ツィンマーマンSS大佐はクルケンベルクの補佐を担当した)。この会議でクルケンベルクSS少将は、ラトビア兵(第15SS所属武装擲弾兵師団(ラトビア第1))の前線がソビエト赤軍に突破されたこと、それゆえ我々は前進して直ちに陣地を確保せねばならぬという現在の戦況を説明し、師団の各部隊に作戦命令を与えた。 しかし翌2月25日の朝、赤軍はハマーシュタイン~ベーレンヴァルデ(Bärenwalde、現ビンチェ(Bińcze))間の鉄道線路に沿って敷かれていた「シャルルマーニュ」師団の防衛線を突破し、攻撃の矛先を「シャルルマーニュ」師団司令部が置かれているエルゼナウ(Elsenau、現オルシャノボ(Olszanowo))へ向けた。 重装備(戦車・榴弾砲)も支援も予備兵力も無い「シャルルマーニュ」師団がわずか数時間しか持ちこたえられないことは明白であり、そのことを報告するため、クルケンベルクSS少将はツィンマーマンをエルゼナウ北方に位置するシュテーガース(Stegers、現ジェチェニツァ(Rzeczenica))の第18山岳軍団司令部へ派遣した。この時、ツィンマーマンにはクルケンベルクの当直将校ヴァレンティン・パツァークSS少尉(SS-Ustuf. Valentin Patzak)が随伴していた。
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