1945年2月以降 第一海防隊-沈没
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「能美 (海防艦)」の記事における「1945年2月以降 第一海防隊-沈没」の解説
1945年(昭和20年)2月4日、船団を護衛しサイゴンを発、5日、第一護衛艦隊隷下の第一海防隊に編入される。6日、シンガポール着。11日、ヒ88F船団(2隻)を護衛してシンガポール発。途中、キノン湾とツーランを経由し、船団は能美の修理のため24日に香港に寄港する。26日、能美の修理が終わり船団は香港発。3月8日、門司着。同日呉へ回航し、呉海軍工廠で兵器換装を含む修理と整備を行った。『第一海防隊(海防艦能美)戦時日誌』の記述では、呉での修理中に九四式爆雷投射機を撤去して三式爆雷投射機とし、水中探信儀を仮称三式水中探信儀改二に換装、さらに一号電波探信儀三型改一を装備したとある。 呉で修理中の3月20日に第一海防隊司令海防艦に指定され、海防隊司令池田暎大佐が乗艦した。4月2日、修理が終わり出渠。8日まで整備と試運転を行い、9日門司へ回航された。11日、護衛隊(能美、三宅、第31号海防艦)はモシ02船団(特設運送船壽山丸、3,943トン、便乗者約400名)を護衛して門司を出発した。13日午後、モシ02船団部隊は済州島飛揚島の泊地に到着し、護衛3隻(能美、海31、三宅)は交替で哨戒することになった。14日未明、泊地に侵入してきたアメリカ潜水艦ティランテの魚雷攻撃により、壽山丸が大爆発を起こして沈没した(戦死者約360名)。能美はティランテを追跡したが、ティランテが発射した魚雷2本のうち1本が能美の艦橋直下に命中した。能美はその衝撃で弾薬庫が誘爆、艦体を両断され轟沈した。第一海防隊司令池田映大佐、海防艦長の箟源三郎少佐以下約130名余の乗組員が戦死した。なお追跡してきた第31号海防艦に対し、ティランテは最後の魚雷を発射した。命中した魚雷は不発であったが、衝撃で第31号海防艦の爆雷が誘爆、同艦は転覆して沈没した(戦死者39名)。唯一生き残った三宅は、応援の海防艦粟国や第39号海防艦とともに対潜掃討をおこなうが、ティランテを捕捉できなかった。 5月25日、能美は第一海防隊と御蔵型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。
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