1945年2月下旬~3月 ポメラニア戦線不在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 21:03 UTC 版)
「ピエール・ミシェル」の記事における「1945年2月下旬~3月 ポメラニア戦線不在」の解説
1945年2月下旬、旅団から昇格した第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」は東部戦線のポメラニアへ出陣した。この時点でピエール・ミシェルSS義勇中尉が所属する第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第33SS所属武装戦車猟兵大隊(Waffen-Panzerjäger-Abteilung der SS 33)の編成は次の通り。 第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第33SS所属武装戦車猟兵大隊(Waffen-Panzerjäger-Abteilung der SS 33):1945年2月 ポメラニア 大隊長 ジャン・ブデ=グージ武装少佐(W-Stubaf. Jean Boudet-Gheusi) 副官 ジョルジュ・ラディシ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Georges Radici) 軍医 ポール・デュランディ(博士)武装大尉(W-Hstuf. Dr. Paul Durandy) 補給 ヴァイスSS中尉(SS-Ostuf. Weiss) ドイツ人連絡将校 クレープシュSS大尉(SS-Hstuf. Kroepsch) (対空砲中隊 ルネ・ファヤールSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. René Fayard)) 対戦車砲中隊 セルジュ・クロトフSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Serge Krotoff)副官 ピエール・ヴァンセノーSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Pierre Vincenot) (突撃砲中隊 ピエール・ミシェルSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Pierre Michel))(護衛小隊 マルク・モングール武装曹長(W-Oscha. Marc Montgour)) しかし、「シャルルマーニュ」師団第33SS所属武装戦車猟兵大隊がポメラニア戦線に出陣した時、所属の中隊が全て従軍していたわけではなかった。対空砲中隊は1945年1月以来ドイツのフルダ(Fulda)で連合軍の爆撃機を相手にした防空任務に駆り出されており、ミシェルの突撃砲中隊は未だにチェコのベーメンで訓練中であった。さらに、1945年3月1日からミシェル自身は「キーンシュラークSS装甲擲弾兵学校」(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag:ベーメンにあるSSの軍学校)でフランス人義勇兵(士官候補生)の訓練教官を務めることとなった。 やがて、ベーメンでの訓練を終えた突撃砲中隊は38式軽駆逐戦車ヘッツァーを装備し、「シャルルマーニュ」本隊に合流すべく移動を開始した。ところが、その途上のヴォティッツ(Wotitz、チェコ語表記ヴォティツェ(Votice))にて彼らのヘッツァーはフェルディナント・シェルナー元帥のシェルナー軍集団によって1輌残らず「接収」(喝上げ)されてしまった。 こうして、突撃砲中隊の将兵が訓練の甲斐もなく擲弾兵(歩兵)として「シャルルマーニュ」本隊に帰還したのは1945年4月、ポメラニア戦線(2月下旬~3月)で大損害を被った「シャルルマーニュ」師団が1個連隊としてドイツ北部のノイシュトレーリッツ(Neustrelitz)地域で再編成中の時であった。
※この「1945年2月下旬~3月 ポメラニア戦線不在」の解説は、「ピエール・ミシェル」の解説の一部です。
「1945年2月下旬~3月 ポメラニア戦線不在」を含む「ピエール・ミシェル」の記事については、「ピエール・ミシェル」の概要を参照ください。
- 1945年2月下旬~3月 ポメラニア戦線不在のページへのリンク