第18山岳軍団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 01:43 UTC 版)
「第33SS武装擲弾兵師団」の記事における「第18山岳軍団」の解説
1945年2月20日、「シャルルマーニュ」師団の先遣隊は東部戦線のポメラニアに向かい、シュテッティン・アルトダム(Altdamm)鉄道駅に到着した。22日に師団はハマーシュタイン(Hammerstein、現ツァルネCzarne)に鉄道輸送され、ドイツ陸軍ヴァイクセル軍集団第2軍麾下の第18山岳軍団(XVIII. Gebirgskorps)に配属された。 フリードリヒ・ホホバウム歩兵大将(General der Infanterie Friedrich Hochbaum)の第18山岳軍団は、北方のフィンランド・ラップランド戦線から2月15日にポメラニア戦線へ投入されたばかりの軍団であり、さらに、軍団所属の師団は東部戦線で疲弊・消耗したドイツ陸軍第32歩兵師団、武装親衛隊第15SS武装擲弾兵師団(ラトビア第1) という有様であった。そして、これらの劣弱な2個師団と肩を並べて、「シャルルマーニュ」師団のフランス人義勇兵が戦場に投入された。 1945年2月24日午後、第57SS所属武装擲弾兵連隊の偵察部隊がソビエト赤軍と交戦し、「シャルルマーニュ」師団にとってのポメラニア戦線が開始された。 この時、「シャルルマーニュ」師団は戦闘準備を行っている最中に、ソビエト赤軍第1白ロシア方面軍所属の4個歩兵師団と2個戦車旅団の攻撃を受けた。重兵器どころか、無線機、地図さえも十分に装備していない「シャルルマーニュ」師団将兵は、手持ちのパンツァーファウストなどの軽装備だけで圧倒的多数の敵戦車に立ち向かうほかなかった。 その結果、ハマーシュタイン周辺での戦闘が開始されてから48時間も経過していない1945年2月25日夜の時点で、「シャルルマーニュ」師団は甚大な損害を被っていた。(資料によって数字に差があるが)およそ500名(将校5名)が戦死し、1,000名(将校15名)が負傷もしくは行方不明となった。
※この「第18山岳軍団」の解説は、「第33SS武装擲弾兵師団」の解説の一部です。
「第18山岳軍団」を含む「第33SS武装擲弾兵師団」の記事については、「第33SS武装擲弾兵師団」の概要を参照ください。
- 第18山岳軍団のページへのリンク