1945年1月-沈没
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「第一号海防艦」の記事における「1945年1月-沈没」の解説
1945年1月1日、サマ14船団を護衛し高雄着。3日、西方への退避を命じられ船団は高雄を出港。4日、南澳島に退避。5日、第3号海防艦を除く第十一海防隊は香港へ回航。7日、香港着。8日、ホタ02船団(2隻)を護衛して高雄へ向け香港発。航行中に行き先を馬公に変更し、11日馬公着。13日高雄へ回航し、14日タモ37船団(7隻)を護衛して内地へ向け高雄発。途中七口洋と泗礁山を経由して、23日六連着。なお、六連へ向け航行中の20日、第36号海防艦(黒井湾在泊中)が第十一海防隊に編入する。本艦は24日から2月4日まで、呉海軍工廠で入渠し修理と整備を行う。 2月4日出渠後門司へ回航し、7日からヒ79船団を護衛、20日シンガポール着。26日から27日まで第130号海防艦とともにヒ94船団に同行、27日からヒ98船団(良榮丸、ぱれんばん丸)に合流するためサンジャックへ向かう。 3月3日0730時、サンジャックに到着して船団に合流し、同0930時には出港した。翌4日にぱれんばん丸が撃沈されたため、船団は一時ツーランに避泊。第69号海防艦と第134号海防艦の来援を待ち、5日にツーランを出発するが、その日のうちに良榮丸が撃沈された。本艦は他艦と分離し楡林-香港間を往復しつつ待機。25日、ヒ88J船団に合流するため楡林を出発し、27日夜にナトランで同船団に合流した。28日朝、船団はナトランを出発したが、その日のうちに空襲と潜水艦により阿蘇川丸と鳳南丸を撃沈され、29日には第84号海防艦と海興丸も撃沈された。30日、三亜に到着したがここでも空襲をうけたため、翌日に引き払い香港に回航。 4月4日1700時、天津風らとホモ03船団(第二東海丸、甲子丸)を護衛し香港を出発したが、翌5日にはアメリカ陸軍機の空襲により2隻の輸送船を撃沈された。6日からは残された護衛艦にも攻撃が始まり、厦門南方洋上で本艦と第134号海防艦が相次いで撃沈された。この攻撃で乗員175名中、海防艦長の有馬國夫少佐以下乗員155名戦死。両艦に対しては横転、沈没後も繰り返し機銃掃射が加えられて死傷者が続出し、生存者20名が救助されたものの、5月2日に別府海軍病院に収容された1名が、5月25日までに香港海軍病舎に収容された19名全員が沈没時の負傷により死亡し、総員戦死しているためその最後は定かではない。また、当艦に対する米軍機の攻撃時の写真が比較的残されており、機銃掃射時に撮影された転覆時艦に兵士がしがみ付いている写真等が残っている。 5月25日、第一号海防艦は第十一海防隊と第一号型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。 時が流れた2012年、厦門沖から艦の残骸が発見され、中国の政府当局はサルベージを禁ずるとともに無断で引き上げられた30トンあまりの残骸を差し押さえ、文化財として保護している。遺留物の砲弾薬莢や名札の人名などから、残骸は第一号海防艦ではないかと言われている。
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1945年1月 沈没
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「第三号海防艦」の記事における「1945年1月 沈没」の解説
1945年1月1日、サマ14船団を護衛して高雄着。3日、他の船団との合同を命じられサマ14船団とともに高雄を出港。4日、南澳島に到着。6日単艦で南澳島を出港し、7日高雄着。8日、単艦で高雄を出港して基隆へ向かう。9日、基隆へ向け航行中、浙江省温州沖でアメリカ艦上機の攻撃を受け、被爆し沈没した。この戦闘で海防艦長の仁科俊郎少佐以下乗員170名が戦死した。 3月10日、第三号海防艦は第一号型海防艦と第十一海防隊から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。
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