第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊
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「ジャン=クレマン・ラブルデット」の記事における「第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊」の解説
1945年2月下旬、第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」は東部戦線のポメラニアへ出陣し、2月22日に師団の先遣隊がハマーシュタイン(Hammerstein、現ツァルネ(Czarne))鉄道駅に到着した。 2月24日午後1時、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇連隊付上級士官候補生が所属する第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊(アンリ・フネSS義勇中尉)は、ハマーシュタインから12キロメートル南東に位置するハインリヒスヴァルデ(Heinrichswalde、現ウニエフフ(Uniechów))への進軍を開始した。この時の「シャルルマーニュ」師団第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊の編成は次の通り。 第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊(Ier Bataillon / Waffen-Grenadier-Regiment der SS 57):1945年2月 ポメラニア・ハインリヒスヴァルデ 大隊長 アンリ・フネSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Henri Fenet) 副官 ピエール・ユグSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Pierre Hug) 当直 ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Jean-Clément Labourdette) 軍医 ルイ・アンネシェンゼルSS連隊付上級士官候補生(SS-StdObJu. Louis Anneshaensel)(ドイツ人) 第1中隊 ジャン・ブラジエSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Jean Brazier) 第2中隊 イヴァン・バルトロメイSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Ivan Bartolomei) 第3中隊 ギイ・クーニルSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Guy Counil) 第4中隊(機関銃・迫撃砲中隊) ピエール・クーヴルSS義勇上級曹長(SS-Frw. Hscha. Pierre Couvreur) しかし、ハインリヒスヴァルデまでの道のりは決して容易なものではなかった。大隊の重兵器と弾薬を輸送する車輌は泥道にはまり、将兵は膝の位置まで沈むほどのくぼみに足をとられ、さらに、ソビエト赤軍から逃げる難民の集団を通過させるために大隊の進軍は遅々として進まなかった。 やがて第I大隊はハインリヒスヴァルデに到達したが、既に村は赤軍部隊によって占領されていた。大隊は24日午後7時に攻撃を開始したが、赤軍の強固な抵抗・反撃に直面し、第3中隊長クーニルSS義勇少尉を含む多数の戦死者および負傷者を出した。 また、第I大隊は彼らの左側面に展開するルネ=アンドレ・オービッツ武装大尉(W-Hstuf. René-André Obitz)の第II大隊と、右側面に展開する第15SS所属武装擲弾兵師団(ラトビア第1)との連絡も未だに確立できていなかった。最終的に第57SS所属武装擲弾兵連隊長ヴィクトル・ド・ブルモン武装大尉(W-Hstuf. Victor de Bourmont)から通達された命令に従い、第I大隊は北東へ後退し、25日午前3時に新たな陣を敷いた。 その後、「シャルルマーニュ」師団は2月25日午後遅くにハマーシュタイン、翌26日にノイシュテッティン(Neustettin、現シュチェチネク(Szczecinek))まで後退した。
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