脚注・人物
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「ジャン・オリヴィエ (武装親衛隊)」の記事における「脚注・人物」の解説
^ベリエ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Bellier):フランスSS突撃大隊第4中隊第2小隊長 生年月日・生誕地・出身組織不明のフランス人義勇兵。当初は「シャルルマーニュ」旅団第57SS所属武装擲弾兵連隊第4中隊に所属していた。 1945年1月からはボヘミアのキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag)で将校教育を受け、(おそらく3月付で)SS所属武装連隊付士官候補生(Waffen-Standarten-Junker der SS)※となった(2月下旬~3月のポメラニア戦線には不参加)。将校教育課程修了後の4月14日、ベルリン北方で再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)に合流。「シャルルマーニュ」師団(連隊)の中で戦闘継続を希望した将兵の1人となり、4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊第2小隊長として参加した。 最終的にベリエは大戦を生き延びてフランスへ帰国したが、1946年6月4日にコート=ドール県ディジョン(Dijon)で裁判にかけられ、有罪判決を受けて刑務所に収監された(1949年に釈放されたが、その後の消息は不明)。 ※Eric Lefèvreの著書に基づく階級。Robert Forbesの著書におけるベリエの階級「連隊付上級士官候補生」(Standarten-OberJunker)は誤り。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers d'origine inconnue : Aspirants : BELLIER" ^ポール・ソバージョ武装伍長(W-Uscha. Paul Sauvageot):フランスSS突撃大隊第4中隊第3小隊長 生年月日・生誕地不明のフランス人義勇兵。偽名は「ソバジョン」(Sauvageon)。 1944年9月1日、再編成に伴ってドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)から武装親衛隊へ移籍。「シャルルマーニュ」旅団(後に師団)では第58SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊に所属した。 1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊第3小隊長として参加した(が、その後の消息は不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Sous-officiers : Paul SAUVAGEOT" ^フィーゼルブラン武装伍長(W-Uscha. Fieselbrand):フランスSS突撃大隊第4中隊第1小隊長 生年月日・生誕地・出身組織不明のフランス人義勇兵。偽名は「フィテルブラン」(Fitelbrand)、「フィッセルブラン」(Fisselbrand)、「フィレルブラン」(Fillelbrand)。 「シャルルマーニュ」師団第57SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊の一員として1945年2月下旬~3月のポメラニア戦線に従軍。ポメラニア戦線撤退後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)ではジャン・オリヴィエSS義勇曹長の第57SS大隊第4中隊に所属し、小隊長を務めた。 1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊第1小隊長として参加。4月26日のノイケルンの戦いで小隊の先陣を切っていたが、(敵の砲撃によって)中隊員17名が戦死した時に脚に重傷を負い、救援を待つ間、戦友たちによってナイフで脚の切断手術が行われた(その後の消息は不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers d'origine inconnue : Sous-officiers : FIESELBRAND" ^ガストン・クーロンSS義勇上等兵(SS-Frw. Strmm. Gaston Coulomb):ベルリン市街戦で両脚を失ったフランスSS突撃大隊第4中隊の上等兵 1921年4月14日、フランス共和国ヴァール県サン=マキシマン(Saint-Maximin)生まれ。1943年、フランス人義勇兵として武装親衛隊へ志願入隊(後に第8フランスSS義勇突撃旅団に所属)。 1945年4月末のベルリン市街戦にはジャン・オリヴィエのフランスSS突撃大隊第4中隊の一員として参加したが、4月29日、(戦闘中に赤軍の砲撃で崩壊した建物の瓦礫によって)重傷を負って両脚を切断した。 両脚を失いつつもクーロンは大戦を生き延びてフランスへ帰国したが、1945年10月19日にトゥーロン軍事裁判所で裁判にかけられ、終身強制労働刑を宣告された(その後の消息は不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"ANNEXES Ⅰ: Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Sturmbrigade : Gaston COULOMB"
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脚注・人物
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「ジャン=クレマン・ラブルデット」の記事における「脚注・人物」の解説
^ シャルル・ルメグ武装中尉(W-Ostuf. Charles Roumégous):ラブルデットの前任の第57SS大隊第1中隊長 1915年8月26日、フランス共和国エロー県モンペリエ(Montpellier)生まれ。 フランス民兵団員(Milicien)。1944年夏、連合軍によってフランスがナチス・ドイツの占領下から解放されるとドイツへ避難し、1944年11月に武装親衛隊へ入隊(編入)。SS所属武装中尉(Waffen-Obersturmführer der SS)任官後、SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊第II大隊長ルネ=アンドレ・オービッツ武装大尉(W-Hstuf. René-André Obitz)の副官を務めた。 1945年3月初旬、ポメラニア戦線で「シャルルマーニュ」師団が戦地再編成を実施した際に、師団最良の部隊で構成された「行進連隊第I大隊」(Ier Bataillon / Régiment de Marche)の第1中隊長に就任。この時のルメグ武装中尉は数ヶ月前に入隊した新人将校であったが、居並ぶ第8フランスSS義勇突撃旅団出身ベテラン兵を前にして臆することなく毅然としていた。その後、行進連隊第I大隊の一員としてディフェノ(Dievenow、現ジブヌフ(Dziwnów))経由でポメラニア戦線からの撤退に成功した。 しかし、ポメラニア戦線から生還した後にルメグは戦意を喪失し、再編後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)第57SS大隊第1中隊長の職をジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉と交代。その後は「シャルルマーニュ」師団(連隊)建設大隊(Baubataillon)第1中隊長を務め、1945年5月初旬にドイツ北部で米英連合軍へ投降し、ノイエンガンメ強制収容所跡地の捕虜収容所へ送られた。 1945年5月16日、ルメグ武装中尉は「シャルルマーニュ」最後の師団長ヴァルター・ツィンマーマンSS大佐(SS-Staf. Walter Zimmermann)が捕虜収容所内で催した師団解散式の場に居合わせたフランス人将校の1人となった。 シャルル・ルメグは大戦を生き延びたが、戦後の1957年10月1日に自殺した(満42歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006)p307, 494. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1: officiers »(lulu, 2011)、"Officiers issus de la Milice Française : Charles ROUMÉGOUS" ^ ジャン・コサールSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Jean Cossard):フランスSS突撃大隊第1中隊副官 1922年、フランス共和国ブーシュ=デュ=ローヌ県マルセイユ(Marseille)生まれ。 1941年末にドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)へ入隊し、第10中隊第1小隊に所属したフランス人義勇兵(入隊時の階級は陸軍一等兵(Gefreiter))。1942年6月2日、白ロシアにおける対パルチザン戦で活躍するも顔面を負傷。後に二級鉄十字章を受章した。 1943年11月、武装親衛隊へ入隊。1944年1月から2月までポーランド西部のポーゼン=トレスコウSS下士官学校(SS-Unterführerschule Posen-Treskau)で教育を受けた後、SS義勇伍長(SS-Frw. Unterscharführer)任官。1944年8月のガリツィアの戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊(Ier Bataillon / 8. Französische-SS-Freiwilligen-Sturmbrigade)の一員として参加したが、8月10日の戦闘で負傷して後送された。 SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」では1945年1月からキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag:チェコのベーメンにあるSSの軍学校)で将校教育を受け、1945年3月付でSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. Standarten-OberJunker)となった。将校教育課程修了後の4月14日、ドイツ北部の町村カルピン(Carpin)で再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰(合流)し、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉の第57SS大隊第1中隊に配属された。 ジャン・コサールSS義勇連隊付上級士官候補生は「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊第1中隊副官としてベルリン市街戦に参加。4月26日午後、テンペルホーフ区における戦闘で死亡した。 なお、ベルリン市街戦でジャン・コサールは戦死したが、戦後の1946年7月16日、マルセイユで行われた欠席裁判でコサールに死刑判決が下った。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Jean COSSARD" ^ アンドレ・ブルミエSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. André Boulmier):フランスSS突撃大隊第1中隊第1小隊長 1925年1月3日生まれ(生年を「1923年」とする記述は誤り。なお、生誕地は不明)。偽名は「ユルミエ」(Ulmier)。 1943年3月に国家社会主義自動車軍団(NSKK)を脱走して武装親衛隊へ志願した最初のフランス人義勇兵グループの1人。アルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)で基礎訓練を受けた後、1944年8月のガリツィアの戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊の一員として参加した。 SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」では(ちなみに、ブルミエの弟も「シャルルマーニュ」旅団/師団の一員)1945年1月からキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育を受け、1945年3月付でSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. Standarten-OberJunker)となった。将校教育課程修了後の4月14日、ドイツ北部の町村カルピンで再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰(合流)し、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉の第57SS大隊第1中隊に配属された。 アンドレ・ブルミエSS義勇連隊付上級士官候補生は「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊第1中隊第1小隊長としてベルリン市街戦に参加。戦闘中(日付不明)に負傷して救護所へ後送された(その後の消息は不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : André BOULMIER" Grégory Bouysse « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine »(lulu, 2012)、"Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-Sturmbrigade : André BOULMIER" ^ ジャック・ル・メニャン・ド・ケランガSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. Jacques Le Maignan de Kérangat):フランスSS突撃大隊第1中隊第3小隊長 1924年7月1日生まれ(生誕地は不明。なお、「ル・メニャン」の綴りを « Le Meignan » とする記述は誤り)。 国家社会主義自動車軍団(NSKK)出身。文献によっては1943年3月にNSKKを脱走して武装親衛隊へ志願入隊した最初のフランス人義勇兵グループの1人とされているが、実際には1943年7月に武装親衛隊へ志願した(ちなみに、同時期に武装親衛隊へ入隊したクリスティアン・マルトレ(Christian Martrès)はNSKK時代からの親友)。 ベルギーの首都ブリュッセルにあるSS隊員(武装親衛隊外国人義勇兵)募集事務所で入隊手続きを済ませた後、ドイツのショッテンSS入隊準備学校(SS-Vorschule Schotten)を経てゼンハイム親衛隊訓練施設に移動。なお、後にル・メニャン・ド・ケランガは第8フランスSS義勇突撃旅団に配属されたが、1944年8月のガリツィアの戦いには参加していなかった。 SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」では1945年1月からキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育を受け、1945年3月付でSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. Standarten-Junker)※となった。将校教育課程修了後の4月14日、ドイツ北部の町村カルピンで再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰(合流)し、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉の第57SS大隊第1中隊に配属された。 ※フランスの歴史家Eric Lefèvreの調査で確認された階級。Robert Forbesの著書におけるル・メニャン・ド・ケランガの階級「連隊付上級士官候補生」(Standarten-OberJunker)は誤り。 ジャック・ル・メニャン・ド・ケランガSS義勇連隊付士官候補生は「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊第1中隊第3小隊長としてベルリン市街戦に参加。4月29日の戦闘で死亡した(満20歳没)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Jacques Le MAIGNAN De KÉRANGAT" ^ ジャン=マリ・クロアジル武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jean-Marie Croisile):フランスSS突撃大隊第1中隊副官 1922年5月15日生まれ(生誕地は不明)。偽名は「クロセイユ」(Croseille)もしくは「クロアジエ」(Croisier)。姓の綴りを « Croisille » としている文献もある。 1941年に(ナチス・ドイツ占領下のフランスの)フランス陸軍第6アルペン猟兵大隊(6ème Bataillon de Chasseurs Alpins (6ème BCA))へ入隊したが、1943年6月にドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)のフランス人義勇兵として東部戦線へ出発し、反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊)第III大隊第9中隊に所属。1944年9月1日、再編成に伴って武装親衛隊へ移籍した(反共フランス義勇軍団解隊に伴い、ジャン=マリはそれまでの功績を嘉されて二級戦功十字章を授与された127名の将兵の1人となり、併せて下士官に昇進した)。 ちなみに、ジャン=マリ・クロアジルの 父 ジャン・クロアジル(Jean Croisile):1894年9月2日、フランス共和国パ=ド=カレー県エナン=リエタール(Hénin-Liétard、現エナン=ボーモン(Hénin-Beaumont))生まれ。第一次世界大戦期のフランス陸軍予備役騎兵大尉 弟 アラン・クロアジル(Alain Croisile):1926年6月10日、フランス共和国の首都パリ(Paris)生まれ は武装親衛隊へ志願入隊し、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊の一員として1944年8月のガリツィアの戦いに参加した(ジャン=マリの父親は最終的に大戦を生き延びたが、弟はガリツィアで戦死)。 SS所属武装伍長(Waffen-Unterscharführer der SS)任官後、ジャン=マリ・クロアジルはSS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第3中隊に所属していたが、1945年1月からはキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育を受け、1945年3月付でSS所属武装連隊付上級士官候補生(Waffen-Standarten-OberJunker der SS)となった。将校教育課程修了後の4月14日、ドイツ北部の町村カルピンで再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰(合流)し、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉の第57SS大隊第1中隊に配属された。 ジャン=マリ・クロアジル武装連隊付上級士官候補生は「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊第1中隊副官としてベルリン市街戦に参加。4月27日午後、ベルリン地下鉄のトンネル内で繰り広げられた戦闘で負傷して救護所へ後送された。 なお、(ベルリン市街戦に参加した武装親衛隊フランス人義勇兵としては)非常に珍しい事例であるが、ジャン=マリ・クロアジルはベルリンからの脱出に成功してフランスへ無事帰国した(その後の消息は不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Jean-Marie CROISILE"Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1: officiers »(lulu, 2011)、"Officiers engagés en 1943-1944 : Jean CROISILE" Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Soldats & Caporaux : Alain CLOISILE" Grégory Bouysse « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine »(lulu, 2012)、"Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-Sturmbrigade : Alain CLOISILE"
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^ ジャック・シャヴァン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jacques Chavant):フランスSS突撃大隊第3中隊第3小隊長 フランス共和国ローヌ県リヨン(Lyon)生まれ(生年月日は不明)。ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)に所属していたフランス人義勇兵。1944年6月下旬のボブル川の戦いで対戦車砲兵として活躍し、二級鉄十字章を受章した。 1944年9月1日、再編制に伴って武装親衛隊へ移籍し、1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag)で将校教育課程を受講。4月14日、カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)にSS所属武装連隊付上級士官候補生(Waffen-Standarten-Oberjunker der SS)として合流し、ピエール・ロスタンの第58SS大隊第6中隊の小隊長を務めた。 1945年4月24日、フランスSS突撃大隊第3中隊第3小隊長としてベルリン目指して行軍を開始したが、道中で車輌が故障したために行軍を断念してカルピンへ帰還。その後は「シャルルマーニュ」師団(連隊)第58SS大隊(SS-Bstaillon 58)の一員としてドイツ北部で米英連合軍に投降した。 ジャック・シャヴァンは大戦を生き延びたが、フランス帰国後、フレンヌにあるフレンヌ刑務所(Maison d'arrêt de Fresnes)に収監された(1946年に同刑務所でロスタンと再会したが、その後の消息は不明)。«出典»Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Jacques CHAVANT" ^ ジャン・デュムラン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jean Dumoulin):フランスSS突撃大隊第3中隊副官 1917年6月29日、フランス共和国ソンム県アミアン(Amiens)生まれ。偽名は「デムラン」(Desmoulins)。ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)第Ⅲ大隊に所属していたフランス人義勇兵で、ロスタンの知人。 1944年9月1日、再編制に伴って武装親衛隊へ移籍し、1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育課程を受講。4月14日、カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)にSS所属武装連隊付上級士官候補生(Waffen-Standarten-Oberjunker der SS)として合流し、ロスタンの第58SS大隊第6中隊に所属。 1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第3中隊副官として参戦したが、4月26日朝、ノイケルンの戦いが開始された直後に敵の機銃掃射を浴びて戦死した(満27歳没)。 なお、ベルリン市街戦でジャン・デュムランは戦死したが、戦後の1945年5月22日、アミアンで行われた欠席裁判でデュムランには死刑判決が下された。«出典»Bouysse 前掲書、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Jean DUMOULIN" ^ ガストン・ボムガルトネ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Gaston Baumgartner):フランスSS突撃大隊第3中隊第2小隊長 1914年、フランス共和国の首都パリ(Paris)生まれ。偽名は「ガルディニエ」(Gardinier)。ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)(ロスタンと同じく第Ⅲ大隊第9中隊)に所属していたフランス人義勇兵で、二級戦功十字章受章者。 1944年9月1日、再編制に伴って武装親衛隊へ移籍し、1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育課程を受講。4月14日、カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)にSS所属武装連隊付上級士官候補生(Waffen-Standarten-Oberjunker der SS)として合流し、ピエール・ロスタンの第58SS大隊第6中隊の小隊長を務めた。 1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第3中隊第2小隊長として参戦したが、4月26日のノイケルンの戦いで足首に銃弾が命中して負傷。戦後、フランスに送還されたボムガルトネは1946年6月12日にパリで裁判を受けた(その後の消息は不明)。«出典»Bouysse 前掲書、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Gaston BAUMGARTNER" ^ ラウル・ジノー武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Raoul Ginot):フランスSS突撃大隊第3中隊第1小隊長 1921年12月14日生まれ(生誕地は不明)。偽名は「ジナ」(Ginat)。ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)に所属していたフランス人義勇兵。 1944年9月1日、再編制に伴って武装親衛隊へ移籍し、1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育課程を受講。4月14日、カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)にSS所属武装連隊付上級士官候補生(Waffen-Standarten-Oberjunker der SS)として合流し、ロスタンの第58SS大隊第6中隊に所属した。 1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第3中隊第1小隊長として参戦。4月26日のノイケルンの戦い(戦闘開始直後のジノーは恐怖のあまり麻痺状態に陥っていたものの、間もなく闘志と冷静さを取り戻した)の最中、肘に銃弾が命中して負傷したが、治療のための後送命令を拒否して前線に留まった。その後のジノーはベルリン市街戦を生き延びて終戦を迎え、フランス帰国後、フレンヌ刑務所に収監された(1946年、同刑務所でロスタンと再会)。 2011年6月5日、ラウル・ジノーはパリで亡くなった(満89歳没)。«出典»Bouysse 前掲書、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Raoul GINOT" ^ ギイ・ジャック・デデュー(Guy Jacques Dedieu):フランスSS突撃大隊第3中隊隊員 1918年6月29日、フランス共和国オート=ガロンヌ県トゥールーズ(Toulouse)生まれ。フランス民兵団員。1944年夏にフランスがナチス・ドイツの占領下から解放されるとドイツへ避難し、1944年11月、武装親衛隊へ入隊(編入)。階級はSS所属武装連隊付士官候補生(Waffen-Standarten-Junker der SS)(他の文献ではSS所属武装曹長(Waffen-Oberscharführer der SS))。 1944年11月中旬から1945年2月の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校に在籍。1945年4月末のベルリン市街戦ではピエール・ロスタンが指揮を執るフランスSS突撃大隊第3中隊に所属した。 1945年4月26日(5月1日は誤り)、ノイケルンの戦いで頭部に銃弾が命中して戦死した(満26歳没)。«出典»Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Guy DEDIEU" Grégory Bouysse "Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine"(lulu, 2012)、"Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-Milice Française : Guy DEDIEU" ^ セルジュ・プロトポポフ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Serge Protopopoff):フランスSS突撃大隊第4中隊長代行 (生年月日不明。推定出生年は1920年代前半)フランス共和国の首都パリ生まれのロシア人で、フランスに帰化(両親はロシア革命でフランスに亡命したロシア人)。なお、セルジュ・プロトポポフの祖父(「父親」とする記述は誤り)はリューリク朝に由来する貴族ウフトムスキー家(Oukhtomsky)の血を引くロシアの政治家で、ロシア帝国最後の内務大臣となったアレクサンドル・プロトポポフ(Alexandre Protopopov / Александр Протопопов)であった(1918年10月27日、ボリシェヴィキ政権によってモスクワで処刑)。 成長後はフランス民兵団に参加したが、1943年12月、ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)に志願入隊。フランスのロワレ県オルレアン近郊モンタルジにある反共フランス義勇軍団幹部養成学校で教育を受けた後、東部戦線の白ロシアに出発し、陸軍曹長(Feldwebel)として反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊)本部に所属した(プロトポポフはこの時期にロスタンと知己の仲になった)。 1944年9月1日、再編制に伴って武装親衛隊へ移籍。「シャルルマーニュ」旅団第58SS所属武装擲弾兵連隊第10中隊に配属されたが、1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育課程を受講※。4月14日、カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)にSS所属武装連隊付士官候補生(Waffen-Standarten-Junker der SS)として合流した。 再編制後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)で戦闘継続を希望し、1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊副官として参戦。中隊長ジャン・オリヴィエSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier)の負傷後は第4中隊長代行として活躍し、市街戦中に合計5輌の赤軍戦車を討ち取った。 1945年5月1日、フランスSS突撃大隊第3中隊長ピエール・ロスタンとの会話中に飛来したソビエト赤軍の迫撃砲弾によって死亡。(ベルリン市街戦中に敵戦車5輌を撃破していた功績を讃えられ、プロトポポフは戦死後に)一級鉄十字章を追贈された。※Robert Forbesの著書p394の記述(彼(プロトポポフ)はロア大尉(Hstuf. Roy)の第57SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊と共にポメラニア戦線に従軍した)は誤り。«出典»Axis History Forum・Board index ‹ Axis History ‹ Foreign Volunteers & Collaboration - Standartenjunker Protopopoff French SS Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Serge PROTOPOPOFF"
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^ マルセル・アルディSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. Marcel Hardy):フランスSS突撃大隊第2中隊第1小隊長 生年月日・生誕地不明。偽名は「ラルディ」(Lardy)。1943年、フランス人義勇兵として武装親衛隊へ志願入隊。1944年春、チェコのネヴェクラウ(Neweklau、チェコ語表記ネヴェクロフ(Neveklov))での訓練中に重傷を負ったため、1944年8月のガリツィアの戦いには参加していなかった。 マルセル・アルディSS義勇連隊付士官候補生※は1945年4月末のベルリン市街戦にフランスSS突撃大隊第2中隊第1小隊長として参加したが、4月26日のノイケルンの戦いの最中に味方との連絡を失って孤立し、ソビエト赤軍の捕虜となった(その後の消息は不明)。 ※Robert Forbesの著書におけるアルディの階級は「曹長」(Oberscharführer)であるが、「連隊付士官候補生」(Standarten-Junker)はEric Lefèvreの調査(著書)で判明した階級。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Marcel HARDY" ^ ジャン=フィリップ・ネロニSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. Jean-Philippe Neroni):フランスSS突撃大隊第2中隊第2小隊長 1923年7月7日、フランス領アルジェリアのフィリップヴィル(Philippeville、現スキークダ(سكيكدة / Skikda))生まれ。ピエ・ノワール(Pied-Noir)。 1944年、アルジェリアを出発して武装親衛隊へ志願入隊した(ネロニは第8フランスSS義勇突撃旅団の一員となったが、1944年8月のガリツィアの戦いに参加していたかどうかは不明)。 SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊第Ⅰ大隊第2中隊の小隊長を務めていたが、1945年1月から「キーンシュラークSS装甲擲弾兵学校」(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag:チェコのベーメンにあるSSの軍学校)で将校教育を受け、(おそらく1945年3月付で)SS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. Standarten-Junker)※となった(1945年2月下旬~3月のポメラニア戦線には不参加)。将校教育課程修了後の4月14日、ドイツ北部の町村カルピン(Carpin)で再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰(合流)し、第57SS大隊第2中隊で小隊長を務めた。 ※Eric Lefèvreの著書に基づく階級。Robert Forbesの著書におけるネロニの階級「連隊付上級士官候補生」(Standarten-OberJunker)は誤り。 ジャン=フィリップ・ネロニSS義勇連隊付士官候補生は「シャルルマーニュ」師団(連隊)の中で戦闘継続を希望した将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊第2中隊第2小隊長としてベルリン市街戦に参加した(が、その後の消息は不明)。 戦後の1945年7月26日、フランスのロワレ県オルレアン(Orléans)で行われた欠席裁判でネロニにフランス国籍剥奪の判決が下った。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Jean-Philippe NERONI" ^ マルク・モングール武装曹長(W-Oscha. Marc Montgour):フランスSS突撃大隊第2中隊第3小隊長 1914年4月23日、フランス共和国ローヌ県リヨン(Lyon)生まれ。姓の綴りを « Mongourd » とする記述は誤り(« Mongourd » はクルーズ県出身者に多く見られる姓で、« Montgour » はリヨン出身者に多く見られる姓 )。戦前のリヨンにおいて一定の顧客層を持つ医者であり、また、名うてのプレイボーイとしても知られた。 フランス民兵団リヨン支部(Milice Française de Lyon)の一員となった後の1944年2月から3月の間、ヴィシー警察の機動予備隊(GMR:保安機動隊の前身)・国家憲兵隊・フランス民兵団・フランス占領ドイツ軍がオート=サヴォワ県グリエール高原(Plateau des Glières:グリエールのマキの拠点)において実施した治安維持活動・マキ(ゲリラ)掃討作戦に民兵団戦闘部隊「フラン=ギャルド」の中隊長(chef de centaine / Franc-Garde)の1人として参加。その後はリムーザン地方に派遣され、ヴィクトル・ド・ブルモン(Victor de Bourmont)指揮下の民兵団治安維持集団「Eグループ」(groupment E)でも中隊長を務めた。 1944年夏、連合軍によってフランスがナチス・ドイツの占領下から解放されるとモングールはドイツへ避難した(なお、モングールの妻はリヨン解放の際にマキ系の武装勢力「FTP」(フランス共産党を奉じるレジスタンス組織)に捕まり、拷問を受けて乳首を切り落とされた)。 1944年11月、フランス民兵団出身のフランス人義勇兵として武装親衛隊へ入隊(編入)。SS所属武装曹長(Waffen-Oberscharführer der SS)任官後、SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」では第33SS所属武装戦車猟兵大隊突撃砲中隊の護衛小隊(随伴歩兵小隊)長を務め、チェコのベーメンにおける突撃砲訓練に従事した。 マルク・モングール武装曹長は「シャルルマーニュ」師団(連隊)の生存者の中でベルリン行き(戦闘継続)を希望した将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊第2中隊第3小隊長としてベルリン市街戦に参加。4月25日午後、中隊長ピエール・ミシェルSS義勇中尉の命令に従って自分の小隊を率いて担当区域の斥候に出発し、25日夜から26日明け方にかけてソビエト赤軍と交戦した。 4月26日朝のノイケルンの戦いでは第2中隊の先鋒としてベルリン通り(Berliner Straße、現カール=マルクス通り(Karl-Marx-Straße))からリヒャルト通り(Richardstraße)に沿って出撃したが、戦闘開始直後に第2中隊は赤軍の猛烈な弾幕射撃に直面して壊乱。その後、モングールは戦闘中(日付不明)に味方との連絡を失って孤立・負傷し、赤軍の捕虜となった。 釈放後(終戦後)、モングールは第二次世界大戦の序盤でドイツ軍の捕虜となったフランス軍将兵やドイツに徴用されたフランス人労働者の集団に紛れ込んでフランスへ帰国したが、アルデンヌ県シャルルヴィル=メジエール(Charleville-Mézières)において血液型の刺青(SS隊員の特徴)を発見され、官憲に逮捕された(指名手配書によると、モングールの特徴は「身長170cm、痩せ型、瀟洒、赤毛、色白」)。 1946年上旬、故郷リヨンで裁判が行われ、フランス民兵団時代の活動が原因で死刑判決を受けたモングールは銃殺刑に処された。※ ※処刑の際にモングールは銃殺隊の指揮権を与えられていた(射殺されるタイミングを自分で決定することになった)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006)、p176, 179, 252, 395, 412-413, 418-419, 510. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Sous-officiers : Marc MONTGOUR"
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^ ダニエル・ウーテルSS少尉(SS-Ustuf. Daniel Wouters):「デリクス」戦闘団(第69SS擲弾兵連隊第Ⅰ大隊)第1中隊第1小隊長 1923年12月2日、ベルギー王国生まれ。レクシズムの青少年組織「ジュネス・レジオネール」(Jeunesse Légionnaire)の一員であり、1942年3月にワロニー部隊(ドイツ陸軍第373ワロン歩兵大隊)に入隊。 1943年6月1日、再編制に伴って武装親衛隊に移籍。SS突撃旅団「ヴァロニェン」の一員として1943年秋から東部戦線のウクライナに出陣し、1944年1月6日のサクレフカ攻撃の際の活躍によって二級鉄十字章を受章。続くノヴォ=ブダの戦いでも活躍し、一級鉄十字章を受章した。 1944年2月のコルスン包囲戦から生還した後は(レジボと同じく)キーンシュラークSS装甲擲弾兵学校(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag)に入学して将校教育を受け、1944年11月9日、SS少尉(SS-Untersturmführer)任官。第28SS義勇擲弾兵師団「ヴァロニェン」配属後、当初は第69SS擲弾兵連隊第7中隊の第2小隊長を務めていたが、後にアンドレ・レジボSS少尉の第1中隊に転属し、第1小隊長を務めた。 ダニエル・ウーテルSS少尉は「ヴァロニェン」師団が参加した1945年2月以降の主な戦い(1945年2月~3月のポメラニア戦線、アルトダム橋頭堡防衛戦)のいずれも生き残ってきたが、終戦目前の1945年4月20日、オーデル川西岸シラースドルフ(Schillersdorf、現Moczyły)で戦死した(満21歳没)。«出典»Eddy de Bruyne & Marc Rikmenspoel "For Rex and for Belgium: Léon Degrelle and Walloon Political & Military Collaboration 1940-1945"(Helion & Co., 2004)p140, 161, 165, 211, 244
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^ ジルベール・ドラットルSS義勇上等兵 (SS-Frw. Strmm. Gilbert Delattre※):武装親衛隊フランス人義勇兵部隊初の戦死者(第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊第1小隊の上等兵) ※Gilbert Delattre…Robert Soulat(ロベール・スーラ)の著書によるとドラットルの名は「アルベール」(Albert) であるが、武装親衛隊フランス人義勇兵に関する他の文献の著者 (Eric Lefèvre, Henri Mounine) はいずれもドラットルの名を「ジルベール」(Gilbert) と表記している(なお、Jean Mabireの著書やRobert Forbesの著書では「ドラットル上等兵」(Sturmmann Delattre) とだけ表記されている)。 1924年5月31日、フランス共和国にある多数の同じ地名のうち、いずれかのサン=タマン (Saint-Amand) 生まれ。 (正確な時期は不明であるが、おそらく1943年夏以降に)フランス人義勇兵として武装親衛隊へ志願入隊した後、アルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設 (SS-Ausbildungslager Sennheim) で訓練を受け(ゼンハイムでは第2中隊に所属)、後に第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊第1小隊の一員として1944年8月のガリツィアの戦いに参加した。 (Robert Forbes(2006) p79 の日付では8月9日の「翌日」とされているが)1944年8月9日、第3中隊の戦区にある村を偵察していたジルベール・ドラットルSS義勇上等兵はソビエト赤軍狙撃兵に撃たれて死亡し、ガリツィアの戦い(武装親衛隊フランス人義勇兵部隊の初陣)で最初に戦死したフランス人義勇兵となった(満20歳没)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Soldats & Caporaux : Gilbert DELATTRE" ^ ロベール・ランベールSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Robert Lambert):第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊の小隊長 → 第2中隊長代行1918年2月10日生まれ(生誕地は不明)。 第二次世界大戦前のフランスにおける極右・反ユダヤ主義政党の1つ「フランス党」(Parti Franciste:マルセル・ビュカール (Marcel Bucard) が1933年9月に創設した政党)の支持者。フランス陸軍入隊後、士官候補生としてモロッコ・スィパーヒー連隊 (Régiment de Spahis Marocains (RSM)) に勤務した※。 ※モロッコ・スィパーヒー連隊に勤務…後にランベールと同じくフランス人義勇兵として武装親衛隊へ入隊するアベル・シャピィ (Abel Chapy) はスィパーヒー連隊時代の同僚の1人。 1943年、25歳の時にフランス人義勇兵として武装親衛隊へ志願入隊。(アンリ・フネと同じく)1944年1月10日から3月4日までバート・テルツSS士官学校 (SS-Junkerschule Bad Tölz) に在籍してフランス人将校用特別課程第1期を履修し、1944年3月10日付でSS義勇少尉 (SS-Frw. Untersturmführer) に任官した。 1944年8月のガリツィアの戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊(フネの中隊)の小隊長(第1小隊長、時期によって第2小隊長)として出陣。8月16日からは指揮官が相次いで負傷した第2中隊に転属し、間もなく第2中隊長代行を務めた。 1944年8月22日午前、モクレ村 (Mokre) の戦闘でロベール・ランベールSS義勇少尉は腹部に迫撃砲弾の破片が命中して重傷を負った。この知らせを受けて駆けつけた大隊長ピエール・カンスSS義勇大尉に担がれ、ランベールは救護所へ運ばれたが既に手の施しようがない瀕死の状態であり、数分後、大隊付軍医ピエール・ボンヌフォアSS義勇中尉に看取られながら死亡した(満26歳没)。その後、ランベールには一級鉄十字章が追贈された。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p105 Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » (Lulu, 2011) : "Officiers engagés en 1943-1944 : Robert LAMBERT" ^ シャルル・ラシェSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. StdObJu. Charles Laschett):第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊第4小隊長1920年3月2日、フランス共和国の首都パリ (Paris) 生まれ。 大学生の頃は政治学を専攻し、また、ジャン・ボワッセル (Jean Boissel) 率いる反ユダヤ・親ドイツ政治団体「ル・フロン・フラン」(Le Front Franc)※に所属していた。※ル・フロン・フラン…シャルルの父親モーリス・ラシェ (Maurice Laschett) はこの政治団体の責任者の1人。 1943年、23歳の時にフランス人義勇兵として武装親衛隊へ志願入隊。当初は下士官候補生として訓練を受けていたが、成績優秀を理由に他のフランス人下士官候補生数名※と共に選抜され、士官候補生コースに編入。1944年1月10日から3月4日までバート・テルツSS士官学校でフランス人将校用特別課程第1期を履修し、3月10日付でSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. Standarten-OberJunker) となった。※他のフランス人下士官候補生数名…ラシェ以外に選抜された下士官候補生はルネ・ファヤール (René Fayard)、ピエール・ユグ (Pierre Hug)、アンリ・クライス (Henri Kreis)、ジョゼフ・ペロン (Joseph Peyron)。 シャルル・ラシェSS義勇連隊付上級士官候補生は1944年8月のガリツィアの戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊(フネの中隊)の小隊長として出陣。8月21日未明、ポレビ村 (Poreby)(推定)に来襲した親衛赤軍部隊に包囲された時、ラシェの小隊は頑強に抵抗した。しかし、第3中隊本部によるラシェ小隊救出の数回の試みが全て赤軍に阻まれて失敗したことに加え、最終的に弾薬が尽きたことでラシェの小隊の生存者は降伏を余儀なくされ、赤軍の捕虜となった(この時、小隊長ラシェは戦傷を負っていた)。 1945年の第1週、シャルル・ラシェはソビエト連邦のタンボフ収容所で衰弱死した(満24歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p27, 56, 59, 99. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Charles LASCHETT" ^ イヴォン・プリュヌネクSS義勇上等兵 (SS-Frw. Strmm. Yvon Prunennec):第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊の分隊長1922年、フランス共和国ブルターニュ (Bretagne) 生まれ。偽名は「イヴォン・トレメル」(Yvon Trémel)。 第二次世界大戦初期〜後期 イヴォン・プリュヌネクの家族は熱烈な反ドイツ主義・反ナチ主義であり、ドイツとの戦争に賛成していたが、イヴォン本人は15歳の時(1937年)からブルトン国家党 (PNB) に所属しており、ドイツに対する反感を持っておらず、ドイツとの戦争を望んでいなかった(そのため家族と意見が対立し、ドイツとの戦争(第二次世界大戦)が勃発した後にイヴォンは家族から「裏切り者」と罵倒された)。 1940年のフランスの戦いの最中の1940年6月、イギリス本土へ避難しようとしたが、ドイツ軍の素早い進撃によって渡英の試みは失敗。フランス敗戦(休戦)後、街の酒場で初めてドイツ兵の一団を目撃したが、当時のフランスの新聞やラジオがしきりに宣伝していたドイツ兵(「食料が無いので常に飢えており、衣服が無いので紙を身体に巻いている」)とはまったく異なるドイツ兵たちの屈強な体格・美しい軍服・礼儀正しい振る舞い(侵略軍の兵でありながら敵国の店の品物を略奪せず、店主に商品の価格を尋ねてから正確に代金を支払って購入)に感銘を受け、ドイツ人に対する好感を深めた(と同時に、嘘の宣伝で国民を欺いた上に敗戦を招いたフランス政府に愛想を尽かした)。 その後のイヴォン・プリュヌネクはドイツの軍務に就いて前線で戦うことを希望していたが、ドイツ陸軍の指揮下で東部戦線に従軍中の「フランス部隊」(反共フランス義勇軍団)へ入隊する気は無く、1944年2月22日、「ヨーロッパ人戦士の集合体」である武装親衛隊へ志願入隊した。 1944年2月〜12月 訓練期間 武装親衛隊入隊後、イヴォン・プリュヌネクはアルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設で訓練を受け、1944年6月1日付でフランスSS義勇突撃旅団(後の第8フランスSS義勇突撃旅団)第1中隊に配属。8月のガリツィアの戦いに参加していたかどうかは不明であるが、10月から12月まではチェコのネヴェクラウ(Neweklau、チェコ語表記ネヴェクロフ (Neveklov))で下士官候補生教育を受けていた。 1945年2月下旬 「シャルルマーニュ」師団(ポメラニア戦線) 1945年2月下旬、イヴォン・プリュヌネクSS義勇上等兵は第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊の分隊長としてポメラニア戦線に従軍。2月24日夜、ハインリヒスヴァルデの戦いで重傷を負って後送された(当初は両腕に被弾して救護所に運ばれたが、第I大隊が救護所として使用していた農場がソビエト空軍機に爆撃されたことによってさらに負傷した)。 戦後 イヴォン・プリュヌネクは1945年2月のポメラニア戦線で重傷を負ったが第二次世界大戦を生き延び、2006年(84歳)の時点でも健在であった(その後の消息は不明)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) pp.60-61., 264. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Soldats & Caporaux : Yvon PRUNENNEC" ^ ギイ・クーニルSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Guy Counil):第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊長1924年4月2日、フランス共和国ソーヌ=エ=ロワール県キュ=レ=ロシュ (Culles-les-Roches) 生まれ。 当初は民間の学生であったが、1944年初旬にフランス人義勇兵として武装親衛隊へ志願入隊。編成中のフランス人義勇兵旅団(後の第8フランスSS義勇突撃旅団)に配属され、1944年5月1日から9月9日まで「キーンシュラークSS装甲擲弾兵学校」(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag:チェコのベーメンにあるSSの軍学校)に在籍。卒業後の9月9日にSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. Standarten-OberJunker) となり、11月9日付でSS義勇少尉 (SS-Frw. Untersturmführer) に任官した。 第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊長を務め、1945年2月下旬のポメラニア戦線に従軍。ハインリヒスヴァルデに進軍する際は第I大隊の先鋒を務めた。 1945年2月24日夜、ギイ・クーニルSS義勇少尉はハインリヒスヴァルデの戦いで村の墓地へ進撃していた時、頭部に銃弾が命中して戦死※した。「シャルルマーニュ」師団将兵の中には物資不足が原因でヘルメットさえ装備できなかった者が少なからずいたが、クーニルもそのうちの1人であった(満20歳没)。 ※村の墓地へ進撃していた時、頭部に銃弾が命中して戦死…Jean Mabire « La Division Charlemagne » (Fayard, 1974. p285 / réédition : Grancher, 2005. p93) の記述(当時、「シャルルマーニュ」師団第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊本部の伝令を務めていたロジェ・ロベルティ (Roger Roberti) の証言に基づく記述)による。 ただし、Saint-Loup, pp.184-186. の記述では「ハインリヒスヴァルデ村に突入した後、第3中隊は村の中央の交差点を1時間以上維持した。しかし、敵の重圧(猛攻)によって死傷者が続出したために第3中隊は交差点からの後退を余儀なくされ、その際に中隊長クーニル少尉が戦死した」とされており、クーニルの死の状況が異なっている。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p264 Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume1 : officiers » (Lulu, 2011) : "Officiers engagés en 1943-1944 : Guy COUNIL" ^ ジャン・ブラジエSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Jean Brazier):第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第1中隊長 → 予備連隊第I大隊補佐1918年5月4日、フランス共和国ドゥー県ブザンソン (Besançon) 生まれ。フルネームは「ジャン・レオン・マリ・ブラジエ」(Jean Léon Marie Brazier) 、偽名は「ブラッスール」(Brasseur)。 第二次世界大戦初期 フランス軍時代 サン・シール陸軍士官学校とサロン=ド=プロヴァンス航空学校 (l'école de l'Air de Salon-de-Provence) を卒業。趣味はスポーツで、特にラグビーとウォーキングと自転車競技は熱心に取り組んだ。 第二次世界大戦勃発後の1939年9月23日、フランス空軍へ入隊。1940年6月のフランス敗戦(休戦)後はヴィシー政権に仕え、1941年9月30日までヴィシー政権軍に所属。除隊後はセーヌ=マリティーム県ルーアンの大学に通った(この時期にブラジエはジャック・ドリオ率いるファシズム政党「フランス人民党」(PPF) に加入した)。 1943年10月〜1944年9月 武装親衛隊への入隊〜訓練期間 1943年10月29日、当時25歳の元フランス軍人ジャン・ブラジエはドイツ国の武装親衛隊へフランス人義勇兵として志願入隊した。 1944年1月24日から2月25日までブラジエはポーランド西部のポーゼン=トレスコウSS下士官学校 (SS-Unterführerschule Posen-Treskau) で下士官教育を受け、1944年7月付でSS義勇連隊付士官候補生 (SS-Frw. Standarten-Junker) となった。その後はベーメンのキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育を受け、9月1日付でSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. Standarten-OberJunker) に昇進した。 1944年9月末、ブラジエはダンツィヒ回廊のザーレッシュ (Saalesch) でクリスティアン・マルトレSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. StdObJu. Christian Martrès) と共に、ドイツ海軍出身フランス人義勇兵の訓練を担当。その後、1944年11月9日付でSS義勇少尉 (SS-Frw. Untersturmführer) に任官した。 1945年2月下旬〜3月中旬 「シャルルマーニュ」師団(ポメラニア戦線) 1945年2月下旬、ジャン・ブラジエSS義勇少尉は第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第1中隊長としてポメラニア戦線に従軍。2月24日夜のハインリヒスヴァルデの戦いで第1中隊は兵力の大半を失い、3月の戦地再編成時にブラジエは「シャルルマーニュ」師団予備連隊 (Régiment de Réserve) へ転属となり、予備連隊第I大隊長エミール・モヌーズ武装大尉 (W-Hstuf. Émile Moneuse) の補佐を務めた。 その後、ポメラニア戦線撤退時に「シャルルマーニュ」師団本隊とはぐれたブラジエは他の少数の将兵と同様にバルト海沿岸部の都市コールベルク(Kolberg、現コウォブジェク (Kołobrzeg))へ辿り着いた(が、この時点でブラジエは戦意を喪失していた)。 1945年3月中旬、ジャン・ブラジエSS義勇少尉はコールベルクで戦死※した(満26歳没)。 ※コールベルクで戦死…ブラジエの最期の詳細は不明。なお、中隊長ジャン・ブラジエSS義勇少尉をはじめ、第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第1中隊のほとんどの将兵が独ソ戦末期・1945年2月下旬〜3月中旬のポメラニア戦線で死亡した。 «出典» RobertForbes«FOREUROPE:TheFrenchVolunteersoftheWaffen-SS»(Helion&Co.,2006)p150,163,263-265,275,308. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume1 : officiers » (Lulu, 2011) : "Officiers engagés en 1943-1944 : Jean BRAZIER" ^ マックス・キカンポアSS義勇曹長 (SS-Frw. Oscha. Max Quiquempoix):第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊の小隊長(後に中隊長)→ 師団司令部馬車中隊先任曹長1916年9月10日、フランス共和国ドルドーニュ県リベラック (Ribérac) 生まれ。偽名の場合の「キカンポア」の綴りは « Quicampoix »。 当初はイゼール県ユリアージュ (Uriage) のフランス民兵団員であったが、1943年にフランス人義勇兵として武装親衛隊へ志願入隊。SS義勇伍長 (SS-Frw. Unterscharführer) 任官後、1944年8月のガリツィアの戦いには第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊(フネの中隊)の小隊長として参加し、戦功によって二級鉄十字章を受章。同年秋にSS義勇曹長 (SS-Frw. Oberscharführer) へ昇進した。 1945年2月下旬のポメラニア戦線には第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊の小隊長として従軍。2月24日夜、ハインリヒスヴァルデの戦いで中隊長ギイ・クーニルSS義勇少尉が戦死した後に第3中隊の指揮を引き継いだ。 1945年3月、ポメラニア戦線で「シャルルマーニュ」師団が戦地再編成を実施した際に師団司令部馬車中隊 (Fahrschwadron B) の中隊先任曹長 (Spieß) に就任。しかしその後、ポメラニア戦線撤退時にキカンポアは赤軍の捕虜となった。 戦後、マックス・キカンポアはフランスへ身柄を送還されて刑務所に収監されたが、1947年にフランス南部のタルヌ県サン=シュルピス・ラ・ポンテ刑務所 (La prison de Saint Sulpice La Pointe) を脱獄。後に南アメリカへ移住した(その後の消息は不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : Max QUIQUEMPOIX" ^ ジャック・フランツSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Jacques Frantz):フランスSS突撃大隊本部第1補佐1925年3月7日、フランス共和国オー=ド=セーヌ県ブローニュ=シュル=セーヌ(Boulogne sur Seine、現ブローニュ=ビヤンクール (Boulogne-Billancourt):パリ市街南西部(パリ16区)に隣接する町)生まれ。1870年代にロレーヌからパリに移住した一家の子孫であり、両親は敬虔なカトリック教徒。 1944年6月〜1945年4月 武装親衛隊への入隊〜訓練期間 パリ9区にあるリセ(高等学校)「リセ・ロラン」(lycée Rollin、現リセ・ジャック=ドクール (lycée Jacques-Decour))を卒業したジャック・フランツは、1944年5月、19歳の時に自ら望んで武装親衛隊への入隊契約書に署名した。これを知ったジャックの父親(反共主義者であると同時に反ナチ主義者でもあるカトリック教徒)は息子がドイツの武装親衛隊に所属することを阻止するために入隊契約を取り消そうとしたが、その甲斐もなく1944年6月1日にジャック・フランツはパリの鉄道駅からアルザス・ゼンハイム行きの列車に乗り込んだ。 ゼンハイム親衛隊訓練施設で訓練を終えた後、フランツは1944年9月から12月までチェコのネヴェクラウで下士官教育を受けた。1945年1月からはキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で他のフランス人士官候補生と共に将校教育を受け、(おそらく)1945年3月付でSS義勇少尉 (SS-Frw. Untersturmführer) 任官※。1945年4月14日、ドイツ北方の町村カルピンで再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)に復帰した。※SS義勇少尉任官…ジャック・フランツは1945年1月から4月までキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校に在籍していたフランス人士官候補生20名以上のうち、将校(少尉)の階級に昇進した唯一の人物。 1945年4月末 フランスSS突撃大隊(ベルリン市街戦) ジャック・フランツSS義勇少尉は「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊本部第1補佐 (1er Officier d'ordonnance) としてベルリン市街戦に参加。4月29日、戦闘中に敵の迫撃砲弾の破片が顔面に直撃して重傷を負ったため、同僚(第2補佐)アルフレド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生 (W-StdObJu. Alfred Douroux) に後事を託し、救護所へ搬送された。 戦後 ベルリン市街戦で顔面に重傷を負いつつも第二次世界大戦を生き延びたジャック・フランツは、戦後の1945年6月にフランスへ帰国した(顔面の戦傷を治療するため、帰国後も数ヶ月間は病院での生活を余儀なくされた)。傷が癒えた後の1945年9月にはロー・スクールに入学し、法律の勉強を始めた。 しかし、終戦から間もない時期のフランス当局・官憲は大戦中にドイツの軍服を着たフランス国民(ドイツ国防軍や武装親衛隊に所属した対独協力者)を捜査・逮捕していたため、1946年10月、フランツは警察の捜査をかわすべくブーシュ=デュ=ローヌ県マルセイユ (Marseille) へ逃れた。しばらくはマルセイユに潜伏していたが、ここでフランツは父親、父親の弁護士、さらに自分の高校時代の友人(第二次世界大戦中の対独レジスタンスの一員であったが、高校時代の友人ジャック・フランツを助けるために尽力。レジスタンスの一員であることを示す証拠品をお守りとしてフランツに持たせた人物)の援助を得て、後にパリに帰ることができた。 1946年12月7日、フランツは1人の女性と結婚した(結婚に際し、フランツは経歴書を偽造した)。 その後、1948年2月1日を最後にジャック・フランツに関する記録は閉じられている。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Officiers (absents du volume 1) : Jacques FRANTZ" ^ ピエール・ミレSS義勇兵長 (SS-Frw. Rttf. Pierre Millet):フランスSS突撃大隊本部伝令班長1924年生まれ(生誕地は不明)。 武装親衛隊へ入隊した年月日は不明であるが、1944年8月のガリツィアの戦いと1945年2月下旬〜3月中旬のポメラニア戦線に参加し、常に危険な任務を果たした歴戦のフランス人義勇兵※。※歴戦のフランス人義勇兵…ただし、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊と第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」におけるピエール・ミレの所属部隊は不明。 ピエール・ミレSS義勇兵長は「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊本部伝令班長としてベルリン市街戦に参加。4月26日のノイケルンの戦いの際に伝令の任務を何度も遂行したが、同日の午後にノイケルン区役所前の道路で戦死した(20歳没)。 ベルリン市街戦でピエール・ミレは戦死したが、戦後の1946年3月14日にフランス共和国ロワレ県オルレアン (Orléans) で欠席裁判が行われ、ミレに公権(フランス国籍)剥奪の判決が下った。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) pp.422-423. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue) : Sturmbrigade : Pierre MILLET" ^ アルベール・ロブラン武装連隊付上級士官候補生 (W-StdObJu. Albert Robelin):フランスSS突撃大隊第1中隊の分隊長生年月日・生誕地不明。フランス民兵団出身のフランス人義勇兵で、1944年11月に武装親衛隊へ入隊(編入)。第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第58SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊の一員として1945年2月下旬〜3月中旬のポメラニア戦線に従軍した。 1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第1中隊(ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉の中隊)の分隊長の1人として参加。4月26日夕方〜夜の間に繰り広げられたテンペルホーフの戦いで生き残り、翌27日、第1中隊の戦況を大隊長フネに伝えるために大隊本部へ派遣された。 1945年4月29日、アルベール・ロブランはベルリン市街戦で戦死した。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Albert ROBELIN" ^ リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長 (SS-Frw. Hscha. Lucien Hennecart):フランスSS突撃大隊本部小隊長1908年生まれ(生誕地は不明)。偽名は「アンヌクール」(Hennecourt)。 1940年〜1943年 武装親衛隊入隊までの経歴 成長後、アンヌカールは1930年代のフランス国内でナショナリズムあるいはファシズムを標榜する様々な政党に所属して過ごしたが、いずれの政党も期待外れであったため、次第に「ヒトラー主義者」(hitlérien:アドルフ・ヒトラーを信奉するフランス人)となった。 ただし、フランスで生まれ育ったアンヌカールにとっては政治が気に食わないとしても「フランスはフランス」であり、ドイツ国との戦争(1940年5月〜6月のフランスの戦い)が勃発した際にはフランス軍の一員として祖国を守る戦いに参加。しかし、多数の戦車・飛行機を有するドイツ軍を前にフランス軍は敗北し、アンヌカール自身も捕虜としてドイツ国内の捕虜収容所へ送られた。 その後、鉄条網に囲まれた場所の中での生活を余儀なくされていてもなお、アンヌカールは戦闘に参加することを望んでいた。彼は後にパリのファシスト新聞『Je Suit Partout』の記者ロベール・ブラジヤック (Robert Brasillach) に対し、次のように述べている。 「戦争(1940年のフランスの戦い)は負けた。それでも俺は武器を手にしたまま(戦いの中で)死にたい」(« La guerre est perdue. Mais je voudrais mourir les armes à la main » ) もっとも、アンヌカールは 海外からドイツとの戦闘継続を主張しているシャルル・ド・ゴールという名前のフランス軍将校(自由フランス代表。1940年6月のフランスの戦いの際にフランス陸軍1個機甲師団を指揮し、ドイツ軍相手に善戦) フランス国内でドイツに従うことを主張するフィリップ・ペタン元帥(ヴィシー政権代表。先の戦争(1914年〜1918年の大戦)の「ヴェルダンの英雄」) のどちらにも賛同しなかった(アンヌカール自身の意見によると、前者(自由フランス)はあまりにも遠い場所にいるため、後者(ヴィシー政権)はあまりにも弱すぎたため)。 1943年初旬、ヴィシー政権が抗議したにもかかわらず、フランス軍捕虜の中で労働を希望した者は外国人労働者としてドイツ国内で働けるようになることをドイツ当局が許可すると、アンヌカールも労働者の1人となった。それから間もなく、連日の単調な労働に飽きていた頃、捕虜は武装親衛隊へ志願することができるという話を聞いたアンヌカールは「鉄条網の外の世界で何が起こっているのか」を見るために、(フランス人義勇兵として)武装親衛隊へ志願入隊した。 1944年8月 第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊(ガリツィアの戦い) SS義勇兵長 (SS-Frw. Rottenführer) もしくはSS義勇伍長 (SS-Frw. Unterscharführer) 任官後、アンヌカールは1944年8月のガリツィアの戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第2中隊(文献によってはフネの第3中隊)の一員として出陣。8月22日※午前、モクレ村 (Mokre) を巡る激戦で負傷して後送されたが、後にガリツィア戦での活躍が認められて二級鉄十字章を受章。1944年10月付でSS義勇曹長 (SS-Frw. Oberscharführer) に昇進した。※1944年8月22日…この日の未明、アンヌカールは戦闘で脚に重傷を負って激痛に苦しんでいる部下1名の懇願を聞き入れ、この部下に「とどめの一撃」(coup de grâce) を与えた。 1945年2月下旬〜4月中旬 「シャルルマーニュ」師団(ポメラニア戦線〜ドイツ北部) 1945年2月下旬、リュシアン・アンヌカールSS義勇曹長は第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第II大隊第5中隊長としてポメラニア戦線に従軍。1945年3月、師団の戦地再編成に伴って行進連隊第I大隊第2中隊長に就任し、ケルリンの戦いで活躍した。 ポメラニア戦線撤退後、アンヌカールはSS義勇上級曹長 (SS-Frw. Hauptscharführer) に昇進。1945年3月下旬からドイツ北部で再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)の第57SS大隊第2中隊長を務めたが、1945年4月中旬、ピエール・ミシェルSS義勇中尉 (SS-Frw. Ostuf. Pierre Michel) の復帰と同時期に第57SS大隊本部へ転属し、大隊本部小隊長に就任した。 1945年4月末 フランスSS突撃大隊(ベルリン市街戦) 1945年4月24日、リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長※はフランスSS突撃大隊本部小隊長としてベルリン市街戦に参加。4月26日のノイケルンの戦いでは戦闘開始直後に負傷(死亡)した第2中隊長ピエール・ミシェルSS義勇中尉の代わりに第2中隊を指揮して奮戦し、4月27日付で「ノルトラント」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将から直々に一級鉄十字章を授与された。※リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長…当時37歳のアンヌカールはフランスSS突撃大隊の将兵の中で最高齢の人物(長老)の1人。 4月28日未明、赤軍が迫ったベル=アリアンス広場(Belle-Alliance-Platz、現メーリング広場 (Mehringplatz) )にアンヌカールは戦車破壊(駆逐)班1個を率いて出撃したが、この日の戦闘でアンヌカールは脚と膝に被弾し、ベルリン地下鉄駅構内の救護所の1つへ搬送された。後に、見舞いに来た大隊長アンリ・フネSS義勇大尉から冗談交じりに「明日か明後日にお前が戻ってくる時まで、(お前が倒す分の)ロシア人を残しておく」と約束された時、アンヌカールは自分がどれほど大尉(フネ)を失望させたくないかという熱意をフネに伝えた(しかし、敵弾が命中した脚と膝の傷は深く、結局アンヌカールはフランスSS突撃大隊の戦列へ二度と復帰できなかった)。 戦後 リュシアン・アンヌカールはベルリン市街戦で脚と膝に重傷を負ったが第二次世界大戦を生き延び、1996年にフランス共和国ヴォクリューズ県アヴィニョン (Avignon) で死去した(88歳没)。 «出典» Jean Mabire « Mourir à Berlin » (réédition : Grancher, 1995) p194 Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p29, 99, 104, 106, 163, 307, 319, 391, 395, 434, 437, 439, 508. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : Lucien HENNECART" ^ マクシム・ド・ラカーズ武装連隊付上級士官候補生 (W-StdObJu. Maxime de Lacaze):フランスSS突撃大隊第1中隊第2小隊長 → 第1中隊長代行1924年8月14日、フランス共和国南西部生まれ。偽名は「ド・カステル」(de Castel)。 1943年〜1944年 フランス民兵団 ヴィシー政権派民兵組織「フランス民兵団」(Milice Française) が創設された当初から参加していた古参民兵団員の1人。マクシムの父親アンリ・ボテ・ド・ラカーズ (Henri Bottet de Lacaze) は後に北フランス(ドイツ軍占領地域)におけるフランス民兵団幹部 (inspecteur général de la Milice en zone nord) の1人となり、ジャン・バソンピエール (Jean Bassompierre) の副官を務めた。 1943年初旬、マクシム・ド・ラカーズはイゼール県ユリアージュ (Uriage) にある民兵団員訓練学校 (L’école des cadres de la Milice à Uriage) に兄弟(兄か弟かは不明)ジャン・ド・ラカーズ (Jean de Lacaze) と共に入学し、教官ポール・ピニャール=ベルテ (Paul Pignard-Berthet) の下で訓練に励んだ。なお、時期は不明であるがマクシムは東部戦線に従軍中のドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 (LVF) に所属したこともあった。 1944年夏、連合軍によってフランスがナチス・ドイツの占領下から解放されつつあった時期、ド・ラカーズは兄弟と共にドイツ国へ避難(民兵団幹部である父親の安否は不明)。数ヵ月後の1944年11月、フランス民兵団出身のフランス人義勇兵として兄弟と共に武装親衛隊へ入隊した。 1944年11月〜1945年4月 訓練期間 SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」配属後、マクシム・ド・ラカーズは1945年1月からベーメンのキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育を受け、おそらく1945年3月付でSS所属武装連隊付上級士官候補生 (Waffen-Standarten-OberJunker der SS) となった(1945年2月下旬〜3月中旬のポメラニア戦線には不参加)。 ポメラニア戦線で大損害を被った「シャルルマーニュ」師団がドイツ北部の町村カルピンで再編成中の1945年4月14日、ド・ラカーズは将校教育課程を修了した他のフランス人士官候補生20名以上と共に師団へ復帰し、アンリ・フネSS義勇大尉の第57SS大隊 (SS-Bataillon 57) に配属。その後、「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵の1人となり、ベルリン行きを志願した※。※ベルリン行きを志願した…ちなみに、マクシムの兄弟ジャン・ド・ラカーズ武装連隊付上級士官候補生(「シャルルマーニュ」旅団/師団では第57SS所属武装擲弾兵連隊第II大隊第5中隊に所属)もフランスSS突撃大隊の一員としてベルリンへ出発した。 1945年4月末 フランスSS突撃大隊(ベルリン市街戦) 1945年4月24日、当時20歳のマクシム・ド・ラカーズ武装連隊付上級士官候補生はフランスSS突撃大隊第1中隊第2小隊長としてベルリン市街戦に参加した。 4月26日夕方〜夜、ド・ラカーズの所属する第1中隊はテンペルホーフ区でソビエト赤軍と交戦。第2小隊長ド・ラカーズは戦闘中に負傷して一時的に戦線を離脱するも、4月27日にド・ラカーズ小隊はベル=アリアンス広場(Belle-Alliance-Platz、現メーリング広場 (Mehringplatz))のバリケードの1つの防衛を担当。4月27日午後、ド・ラカーズは第1中隊長ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉がベルリン地下鉄のトンネル内へ向かったきり連絡が途絶えた後に第1中隊の指揮を引き継ぎ、同日の夜に第1中隊の生存者を引き連れて大隊本部まで帰還した。 4月28日、第1中隊長代行ド・ラカーズは第3中隊長ピエール・ロスタン武装上級曹長 (W-Hscha. Pierre Rostaing) および戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉 (SS-Ostuf. Wilhelm Weber) と連携し、ヴィルヘルム通りに出現した赤軍部隊を撃退した。同日の夕方、戦闘中にド・ラカーズは赤軍狙撃兵に撃たれて重傷を負い、ベルリン市内の野戦病院の1つへ搬送されたが、そこで病院を制圧した赤軍の捕虜となった。 しかし、ド・ラカーズは負傷で弱っていたにもかかわらず同日の夜に赤軍占領下の病院から脱走し、モアビット区 (Moabit) の遺棄されたアパートの一室で夜を過ごした。翌朝(4月29日朝)、その建物の上階と下階に赤軍兵がいることに気付いたため、再び夜になってから移動を開始。ところが、慎重に建物の階段を下りたド・ラカーズが地上に立った直後、途中で彼のポケットから落ちていた手榴弾が階段を転がり落ちて爆発した。この手榴弾の破片によってド・ラカーズは新たに重傷を負い、建物内の赤軍兵が騒ぎに反応して近寄ってきた。ド・ラカーズは血液型の刺青を左腋の下に施している武装親衛隊フランス人義勇兵であったが、赤軍兵は何も質問せずにこの重傷者を急いで近くの病院まで連れて行った(その後もド・ラカーズの正体を誰も確かめようとせず、彼はドイツに徴用された外国人労働者であると見なされていた)。 戦後 ベルリン市街戦で重傷を負いつつも第二次世界大戦を生き延びたマクシム・ド・ラカーズ※は、身柄をフランスへ送還されてからはオー=ド=セーヌ県シュレンヌ (Suresnes) のフォッシュ病院 (Hôpital Foch) で5ヶ月間過ごした。※大戦を生き延びたマクシム・ド・ラカーズ…マクシムの兄弟ジャン(共にベルリン市街戦に参加)の生死は不明。 その後、まだ体内に手榴弾の破片がいくつか残っている状態のまま病院から離れ、アルプ=マリティーム県ニース (Nice) まで辿り着いたド・ラカーズは、元レジスタンスのメンバーでありながらもフランス解放時に何名かの「敗北者」(対独協力者)をフランス国外へ脱出させる手助けをした女性「マダム・S」(Mme de S.) と対面した。彼女に自身の経歴を話した後、ド・ラカーズは彼女のモーターボートによってイタリアに運ばれた(イタリア到着後は1人のイエズス会修道士によって保護された)。 ド・ラカーズがイタリアへ去った後の1945年12月20日、フランス南西部ロット=エ=ガロンヌ県アジャン (Agen) で欠席裁判が行われ、ド・ラカーズに死刑判決が下った。 1946年、マクシム・ド・ラカーズはイタリアから南アメリカへ渡航し、2005年に死去するまでアルゼンチン共和国の首都ブエノスアイレスで暮らした(81歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p394, 434-435, 437, 439, 440, 504. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) :"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Maxime De LACAZE" "Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Jean De LACAZE" Grégory Bouysse « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine » (Lulu, 2012) : "Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-Milice Française : Maxime De LACAZE" ^ ジョルジュ・クーテュラン (Georges Couturin):フランスSS突撃大隊本部通信手生年月日・生誕地不明。戦前はフランス共和国の首都パリの消防士であったが、(おそらく1943年7月下旬〜1944年夏までの間に)フランス人義勇兵として武装親衛隊へ志願入隊し、第8フランスSS義勇突撃旅団に所属(1944年8月のガリツィアの戦いに参加したかどうかは不明)。その後、第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊に所属した。 ジョルジュ・クーテュラン(階級不明)は「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊本部の一員(通信手)としてベルリン市街戦に参加。4月29日の戦闘では赤軍兵に侵入された建物から脱出する際に火を放って赤軍兵の足止め(味方の後退の時間稼ぎ)をした。また、5月1日午後の戦闘で赤軍からの火炎放射攻撃がフランスSS突撃大隊の陣取る建物に浴びせられた際には、陣頭に立って消火活動に臨んだ(しかし、この消火活動は消火用の水が無かったため失敗した)。 第二次世界大戦におけるジョルジュ・クーテュランの最終的な生死は不明※であるが、戦後の1947年12月24日、フランス共和国パリ軍事裁判所 (le tribunal militaire de Paris) は欠席裁判でクーテュランに死刑判決を下した。 ※クーテュランの最終的な生死は不明…Mabire(1995) p270(およびForbes(2006) p463)によると、ジョルジュ・クーテュランは大隊長フネのグループの一員として1945年5月2日午後3時頃にポツダム広場のベルリン地下鉄駅構内で赤軍の捕虜になったという(その後の消息は不明)。これらの記述とは対照的にBouysse(2011)は、クーテュランは「おそらくベルリン戦で死亡した」と推測している。 «出典» Jean Mabire « Mourir à Berlin » (réédition : Grancher,1995) p210, 270. Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p443, 463. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue) : Sturmbrigade : Georges COUTURIN" ^ アルフレド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生 (W-StdObJu. Alfred Douroux):フランスSS突撃大隊本部第2補佐1920年生まれ(生誕地は不明)。偽名は「ドゥーロー」(Douraux)。 (第二次世界大戦の当初はフランス陸軍軍人※であったが)1943年初旬にドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)へ志願入隊し、後に第II大隊第6中隊に所属したフランス人義勇兵。1944年9月1日、再編成に伴って武装親衛隊へ移籍した。 ※フランス陸軍軍人…いくつかの文献で公表されているポートレイト写真で、アルフレド・ドゥールーは第二次世界大戦期フランス陸軍の制服を着用している。 1945年1月からはベーメンのキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で将校教育を受け、3月付でSS所属武装連隊付上級士官候補生 (Waffen-Standarten-OberJunker der SS) となった。1945年4月14日、ドイツ北部の町村カルピンで再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)に復帰し、第57SS大隊長アンリ・フネSS義勇大尉の第2補佐を務めた。 1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊本部第2補佐 (2ème Officier d'ordonnance) として参加。4月26日のノイケルンの戦いにおける活躍が「ノルトラント」師団の戦車将校に認められ、その将校の一級鉄十字章を授与された(この受章は非公式なものであったため、4月29日付で改めて一級鉄十字章を公式に受章した)。その後もドゥールーは大隊長フネ(左足負傷)をサポートしつつ戦闘を継続し、5月2日、赤軍の手に落ちたベルリン市街からの脱出作戦中にミッテ区ポツダム広場のベルリン地下鉄駅構内で赤軍部隊に発見され、フネ(と他の戦友数名)と共に赤軍の捕虜となった。 アルフレド・ドゥールーは第二次世界大戦を生き延び、1998年に死去した(78歳没)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Alfred DOUROUX" ^ ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉 (SS-Ostuf. Hans-Joachim von Wallenrodt):フランスSS突撃大隊副官1914年8月27日、ドイツ国(帝政ドイツ)プロイセン王国ハノーファー (Hannover) 生まれ。第二次世界大戦(独ソ戦)末期に「シャルルマーニュ」師団(連隊)フランスSS部隊査察部の情報参謀 (Ic) を務めていたドイツ人SS中尉。正確な時期は不明であるが、かつては宣伝中隊の戦時報道員(従軍記者)であった。 1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊(大隊長アンリ・フネSS義勇大尉)の副官として参加し、市街戦中に戦車破壊(駆逐)班1個、またはフネが不在の間のフランスSS突撃大隊の指揮を執るなどして活躍。1945年4月29日付で一級鉄十字章を受章した(フネいわく、フォン・ヴァレンロートは「非常に落ち着いた状態のまま、この(ベルリン市街戦の)騒音の中で気楽にしていた」)。 ベルリン守備隊がソビエト赤軍に降伏した1945年5月2日、フォン・ヴァレンロートは大隊長アンリ・フネのグループの一員としてベルリン脱出およびドイツ第12軍との合流を試みて移動していたが、同日午後3時頃にフネのグループ全員と共にミッテ区ポツダム広場の地下鉄駅構内で赤軍部隊に発見され、捕虜となった。 その後、ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉が生きて帰ってくることは無かった(フォン・ヴァレンロートの遺族は、彼はソビエト連邦領内の収容所で死亡した※と推測している)。 ※収容所で死亡した…Mabireの著書の記述。ただし、Grégory Bouysseの著書の記述によると、ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉は1945年5月2日にベルリンで死亡したという(満30歳没)。 «出典» Jean Mabire « Mourir à Berlin » (réédition : Grancher,1995) p271 Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p393, 407, 421, 427-428, 433-434, 437, 450, 463. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » (Lulu, 2011) : "Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » : Hans-Joachim von WALLENRODT" ^ ロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長 (SS-Frw. Uscha. Roger Albert-Brunet):捕虜となった後、赤軍兵に射殺されたフランスSS突撃大隊本部の下士官フランス共和国ドーフィネ (Dauphiné) 出身(生年月日は不明)。 1943年初頭にフランス民兵団に参加し、イゼール県ユリアージュ (Uriage) にある民兵団員訓練学校 (L’école des cadres de la Milice à Uriage) に在籍した後、1943年秋に武装親衛隊へ志願入隊したフランス人義勇兵。1944年8月のガリツィアの戦い、1945年2月下旬〜3月中旬のポメラニア戦線を経験した※。※ガリツィア戦、ポメラニア戦を経験…ただし、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊や第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」におけるロジェ・アルベール=ブリュネの所属部隊は不明。 1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊本部の一員として参加し、ソビエト赤軍戦車の撃破数を戦友のウジェーヌ・ヴォロ (Eugène Vaulot) と競い合った。4月29日、アルベール=ブリュネは市街戦中にパンツァーファウストを用いて赤軍戦車を合計4輌撃破した功績によって一級鉄十字章を受章した(なお、ウジェーヌ・ヴォロは合計8輌撃破した功績により、4月29日付で騎士鉄十字章を受章した)。 1945年5月2日午後3時過ぎ、ロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長は大隊長アンリ・フネSS義勇大尉と共にミッテ区ポツダム広場の地下鉄駅構内で赤軍の捕虜となったが、その後の移送中、アルベール=ブリュネの制服の腕に着いている戦車撃破章 (Panzervernichtungsabzeichen) を見た赤軍兵によって射殺された。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : Roger ALBERT-BRUNET"
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脚注・人物
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^ ジャック・パスケ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jacques Pasquet):ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉の副官 1914年、フランス共和国アンドル県サン=ゴルティエ(Saint-Gaultier)生まれ(アリエ県ムーラン生まれとする説もある)。偽名は「パスコ」(Pasquot)。戦前のフランスにおけるスポーツ選手・モデルであり、1937年にパリで開催されたコンクール「ミスター・フランス」と「ミスター・ヨーロッパ」で優勝した経験を持つ。 第二次世界大戦勃発後、(時期は不明であるが)フランス民兵団(Milice Française)の一員となり、1944年11月にナチス・ドイツ武装親衛隊へ入隊(編入)。SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」(後に師団)のエリート歩兵部隊「名誉中隊」に配属され、中隊長ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉の副官となった。 パスケは第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」名誉中隊の副官として1945年2月下旬~3月のポメラニア戦線に従軍したが、(おそらくポメラニア戦線撤退時に)ソビエト赤軍の捕虜となり、モスクワから約150キロメートル西に位置するキシロフカ(Kissilowka / Kissilovka)収容所に抑留された。 ジャック・パスケは大戦を生き延び、フランス帰国後はパリでボディビルクラブを開業した(その後の消息は不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Jacques PASQUET" Male Physique Vintage - Galerie de photos - de ma collection personnelle - /(大会中のジャック・パスケを撮影した写真) ^ ピエール・スリエ武装伍長(W-Uscha. Pierre Soulier):エルゼナウの戦いで活躍し、中隊長ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉の一級鉄十字章を授与された名誉中隊隊員 1921年(もしくは1922年)、フランス共和国アルザス地域圏(Alsace)生まれ。 1943年、ナチス・ドイツのトート機関(Organisation Todt)労働者警備隊「シュッツコマンド」(Schutzkommando (SK))に参加し、東部戦線(ロシア)で数ヶ月間勤務。1944年初旬、フランス人義勇兵としてドイツ海軍(Kriegsmarine)へ志願入隊した(同じくフランス人義勇兵のウジェーヌ・ヴォロ(Eugène Vaulot)やロベール・スーラ(Robert Soulat)は、ドイツ海軍時代に知り合った戦友)。 1944年9月16日、再編成に伴ってドイツ海軍から武装親衛隊へ移籍し、SS所属武装伍長(Waffen-Unterscharführer der SS)任官。SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」配属後、当初は第58SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊の小隊長を務めていたが、後に選抜されてヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉の「名誉中隊」(後の戦術学校)の一員となった。 1945年2月25日、ポメラニア戦線・エルゼナウの戦いで対戦車地雷やパンツァーファウストを駆使して赤軍戦車3輌(4輌)※を撃破した功績により、中隊長ヴェーバーSS中尉の一級鉄十字章を授与された。また、第2小隊長ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長がスターリン重戦車(IS-2)を撃破する前には、ヴォロや他のフランス兵と連携してスターリン重戦車包囲の一翼を担っていた。 ※スリエが一級鉄十字章をヴェーバーから授与された時の敵戦車撃破数として、Robert Forbesは「3輌」と記しているがGrégory Bouysseは「4輌」と記している。 しかしその後、ピエール・スリエは5輌目の敵戦車を攻撃していた時に戦死した(戦死時の状況の詳細は不明)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006)pp.287-288. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : Pierre SOULIER" ^ エミール・ジラール武装伍長(W-Uscha. Émile Girard):敵前逃亡の罪で銃殺刑に処された戦術学校隊員 1920年9月14日、フランス共和国アルプ=マリティーム県ル・カネ(Le Cannet)生まれ。偽名は「エミール・ジェラール」(Emile Gérard)。当初は民間の製パン業者であったが後にフランス民兵団ニース支部の一員となり、民兵団戦闘部隊「フラン=ギャルド」(Franc-Garde de Nice)に所属。1944年11月、民兵団出身のフランス人義勇兵としてナチス・ドイツ武装親衛隊へ入隊し、SS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」名誉中隊に配属された。 1945年4月、ドイツ北部地域における対戦車障害物建設工事で小隊長命令を拒否した後、2月下旬のポメラニア戦線・エルゼナウの戦いで持ち場から逃げ出した(敵前逃亡した)ことを軍法会議で問責され、死刑が確定。1945年4月19日から20日にかけての夜、カルピン(Carpin)墓地においてフランソワ・アポロ武装曹長(W-Oscha. François Appolot)が指揮を執る銃殺隊によって銃殺刑に処された(満24歳没)。なお、エミール・ジラールは「シャルルマーニュ」師団戦術学校の銃殺隊によって処刑されたが、戦後の1945年7月10日、フランスのアルプ=マリティーム県グラース(Grasse)で行われた欠席裁判でジラールには死刑判決が下った。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"ANNEXES Ⅰ: Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Milice Française : Émile GIRARD" ^ ジャン・エメ=ブランSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jean Aimé-Blanc):戦術学校第2小隊長 1920年12月19日生まれ(生誕地は不明。また、生年を「1911年」とする記述は誤り)。偽名は「アルムブラン」(Armeblanc)。当初はフランス空軍の軍曹であったが、1944年初旬にナチス・ドイツ武装親衛隊へ志願入隊したフランス人義勇兵。アルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)において戦闘教官の1人となった。 後に第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」の一員として1945年2月下旬~3月のポメラニア戦線に従軍。3月初旬から中旬にかけて師団本隊とはぐれた将兵の一部が参加したコールベルク(Kolberg、現コウォブジェク(Kołobrzeg))の戦いを生き延び、ポメラニア戦線撤退後にドイツ北部のカルピンで再編成中の「シャルルマーニュ」師団(連隊)に合流。ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉の戦術学校に配属された。 ジャン・エメ=ブランSS義勇伍長は「シャルルマーニュ」師団(連隊)の生存者の中で戦闘継続を希望した将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊戦術学校第2小隊長としてベルリン市街戦に参加。最終的に大戦を生き延びた(戦後の消息は不明)。 なお、1960年代以降のフランスとカナダで「社会の敵No.1」と呼ばれた犯罪者ジャック・メスリーヌ(Jacques Mesrine)を長年追い続けたフランスの警察官リュシアン・エメ=ブラン(Lucien Aimé-Blanc、1935年生まれ)はジャン・エメ=ブランの親族の1人である。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Jean AIMÉ-BLANC" ^ ジェラール・フォントネーSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Gérard Fontenay):戦術学校第3小隊長 1920年7月19日、フランス領西アフリカ・セネガルの首都ダカール(Dakar)生まれ。 (正確な時期は不明であるが)ナチス・ドイツ武装親衛隊へフランス人義勇兵として入隊し、ゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)で基礎訓練を終えた後、ポーランド西部のポーゼン=トレスコウSS下士官学校(SS-Unterführerschule Posen-Treskau)に入学。後に第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」名誉中隊の一員としてポメラニア戦線に従軍し、2月25日のエルゼナウの戦いで4輌の赤軍戦車を撃破した。 ジェラール・フォントネーSS義勇伍長※は「シャルルマーニュ」師団(連隊)の生存者の中で戦闘継続を希望した将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊戦術学校第3小隊長としてベルリン市街戦に参加。最終的に大戦を生き延びた(戦後の消息は不明)。 ※第二次世界大戦期のフランスのジャーナリスト・対独協力者で、1945年4月28日にベルリン市街戦の戦闘に巻き込まれて死亡したジャン・フォントノア(Jean Fontenoy)とは別人(ジャン・フォントノアは独ソ戦の間にドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)の宣伝部隊に所属していたこともあったが、武装親衛隊には所属していない)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Gérard FONTENAY" ^ ジュール・ブーコーSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jules Boucaud):ベルリン市街戦で赤軍戦車4輌を撃破した戦術学校隊員 生年月日・生誕地不明のフランス人義勇兵。偽名は「ボコ」(Bocau)。第8フランスSS義勇突撃旅団出身で、「シャルルマーニュ」師団戦術学校の一員。1945年4月末のベルリン市街戦中に4輌の赤軍戦車を撃破し、4月29日付で一級鉄十字章を受章した(その後の消息は不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Jules BOUCAUD" ^ ジャック・エヴラルSS義勇兵長(SS-Frw. Rttf. Jacques Evrard):1945年5月2日のベルリン脱出時、ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉に同行していたフランス人義勇兵 1924年5月、フランス共和国ロワレ県モンタルジ(Montargis)の医者(外科医)の息子として誕生。偽名は「エヴラン」(Evrand)。 当初はフランス人民党(PPF)の一員であったが、1944年6月(注:連合軍がフランスのノルマンディー海岸に上陸した後)にナチス・ドイツ武装親衛隊へ入隊。ゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)で基礎訓練を受けた後、フランスSS擲弾兵訓練・補充大隊(Franz. SS-Grenadier Ausbildungs-und Ersatz Bataillon)に配属された。 第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊の衛生兵として1945年2月下旬~3月のポメラニア戦線に従軍。ポメラニア戦線から生還した後、エヴラルは「シャルルマーニュ」師団の生存者の中で戦闘継続を希望した将兵の1人となり、1945年4月24日、フランスSS突撃大隊第3中隊(ピエール・ロスタン武装上級曹長)の主計としてベルリン市街戦に参加した。 1945年5月1日から2日にかけての夜、戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉に付き従ってベルリン脱出を開始。ある地点でヴェーバーのグループが包囲突破を敢行した際にエヴラルは道路を横切って1軒の家に駆け込み、廊下の奥のドアを開けたが、その部屋の中には椅子に腰掛けてくつろぐ1人の赤軍兵がいた。フランス人義勇兵と赤軍兵の双方が驚愕する中、慌てた赤軍兵が銃を撃つよりも早くエヴラルは家の外の道路に飛び出していた。その後、エヴラルは別の建物の中に身を潜め、夜明けを待った。 5月2日午後、未だにベルリン市街で抵抗を続けるドイツ人SS兵士とフランス人義勇兵の一部が篭る建物の前に1輌の赤軍戦車が現れ、建物に主砲を向けた。しかし、赤軍戦車兵はこの日の午前中にベルリン防衛司令官ヘルムート・ヴァイトリングが赤軍第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフ将軍に降伏を申し入れ、市内のドイツ軍部隊は戦闘を停止するよう命じられていることを知っていたため、発砲は控えて降伏を呼びかけた。 降伏勧告を受けた建物内では、地下室に避難していた民間人たちが上階に姿を現してSS兵士たちを取り囲んでいた。戦いをやめるよう懇願するベルリン市民に囲まれ、戦闘継続が無意味であると悟ったSS兵士たちはついに武器を置いた。この時、エヴラルは民間人の服に着替えて身の安全を図るという考えを思いついたがすぐに思い直し、ここまで生き残ってきた武装親衛隊の戦友たちと最後まで行動を共にすることを選んだ。そして全ての武器と弾薬を処分した後、ドイツ人SS兵士およびフランス人義勇兵の一部から成るグループは建物の外に出て赤軍に投降した。 ジャック・エヴラルは大戦を生き延び、1949年からはパリ市内の病院に通勤助手として勤務。1953年にインターン(医学実習生)となり、整形外科と外傷外科の道へ進んだ。後にパリのコシャン病院(Hôpital Cochin)の外科医となり、骨・関節の感染症治療のスペシャリストとして知られた(感染症に関する書籍を晩年までに約130冊著した)。 1994年12月20日、ジャック・エヴラルは死去した(満70歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006)pp.459-460. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Soldats & Caporaux : Jacques EVRARD"
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^ モーリッツ・ツィンマーマン(Moritz Zimmermann):ヴァルター・ツィンマーマンの父親 普仏戦争(1870年~1871年)に従軍した経験を持つ人物。マイセンの郵便局長を務め、後の第一次世界大戦にも最初の2年間(1914年~1916年)従軍した。 «出典» Marc C. Yerger « Waffen-SS Commanders: The Army, Corps and Divisional Leaders of a Legend: Krüger to Zimmermann »(Schiffer Publishing, 1999)p352 ^ フェルディナント・ティーツ(Ferdinand Tietz):SS特務師団工兵大隊の初代大隊長 当初は親衛隊特務部隊工兵大隊の技術将校を務めていたが、1935年11月、ヴァルター・ツィンマーマンと技術将校の職を交替した(ただし、その後も親衛隊特務部隊工兵大隊に所属し、大隊副官や中隊指揮官を務めた)。 第二次世界大戦勃発後に親衛隊最初の師団(SS特務師団)が創設されると、同師団工兵大隊の初代大隊長に就任。1942年4月まで同職を務めた後は工兵訓練・補充部隊の指揮官として過ごし、終戦時は在オランダ武装親衛隊司令部の工兵先任将校であった。最終階級はSS大佐(SS-Standartenführer)であり、大戦中に二級鉄十字章と一級鉄十字章を受章した。 1982年10月25日に死去。 «出典» Marc C. Yerger « Waffen-SS Commanders: The Army, Corps and Divisional Leaders of a Legend: Krüger to Zimmermann »(Schiffer Publishing, 1999)p352 ^ ヴァレンティン・パツァークSS少尉(SS-Ustuf. Valentin Patzak):グスタフ・クルケンベルクSS少将の当直将校 1912年1月9日、ドイツ国(帝政ドイツ)フュルステンベルク(Fürstenberg)生まれ。親衛隊将校(SS隊員番号290 189)。 第二次世界大戦(独ソ戦)後期は第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」のドイツ人部署(フランスSS部隊査察部)に所属し、フランスSS部隊総監グスタフ・クルケンベルクSS少将の第1当直将校として勤務(1945年2月下旬~3月のポメラニア戦線ではヴァルター・ツィンマーマンSS大佐に随伴し、戦場を東奔西走した)。 1945年4月末のベルリン市街戦にもクルケンベルクSS少将(「ノルトラント」師団長就任)の側近(第2当直)として参加し、クルケンベルクと行動を共にした。 1945年5月1日から5月2日にかけての夜、ヴァレンティン・パツァークSS少尉はクルケンベルクSS少将が主導するベルリン市街脱出計画を航空省周辺の残存部隊へ伝えるために、ベルリン地下鉄市中央駅(U-Bahnhof Stadtmitte:「ノルトラント」師団司令部)から地上に出て航空省方面へ向かったが、その道中で行方不明となった。※ ※Grégory Bouysseの著書では、ヴァレンティン・パツァークSS少尉は1945年5月2日にベルリンで死亡したとされている(満33歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Company, 2006)p458 Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1: officiers »(lulu, 2011)、"Annexe I: Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » Valentin PATZAK"
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