脚注・人物とは? わかりやすく解説

脚注・人物

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ジャン・オリヴィエ (武装親衛隊)」の記事における「脚注・人物」の解説

^ベリエ武装連隊士官候補生(W-StdJu. Bellier):フランスSS突撃大隊第4中隊第2小隊長 生年月日生誕地出身組織不明フランス人義勇兵当初「シャルルマーニュ」旅団第57SS所属武装擲弾兵連隊第4中隊所属していた。 1945年1月からはボヘミアキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag)で将校教育を受け、(おそらく3月付で)SS所属武装連隊士官候補生(Waffen-Standarten-Junker der SS)※となった2月下旬3月ポメラニア戦線には不参加)。将校教育課程修了後の4月14日ベルリン北方再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)に合流。「シャルルマーニュ師団連隊)の中で戦闘継続希望した将兵1人となり、4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊第2小隊長として参加した最終的にベリエは大戦生き延びてフランスへ帰国したが、1946年6月4日コート=ドール県ディジョンDijon)で裁判かけられ有罪判決受けて刑務所収監された(1949年釈放されたが、その後消息不明)。 ※Eric Lefèvre著書に基づく階級Robert Forbes著書におけるベリエの階級連隊上級士官候補生」(Standarten-OberJunker)は誤り。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers d'origine inconnue : Aspirants : BELLIER" ^ポール・ソバージョ武装伍長(W-Uscha. Paul Sauvageot):フランスSS突撃大隊第4中隊第3小隊長 生年月日生誕地不明フランス人義勇兵偽名は「ソバジョン」(Sauvageon)。 1944年9月1日再編成伴ってドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)から武装親衛隊移籍「シャルルマーニュ」旅団(後に師団)では第58SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊所属した1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊第3小隊長として参加した(が、その後消息不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Sous-officiers : Paul SAUVAGEOT" ^フィーゼルブラン武装伍長(W-Uscha. Fieselbrand):フランスSS突撃大隊第4中隊第1小隊長 生年月日生誕地出身組織不明フランス人義勇兵偽名は「フィテルブラン」(Fitelbrand)、「フィッセルブラン」(Fisselbrand)、「フィレルブラン」(Fillelbrand)。 「シャルルマーニュ師団第57SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊一員として1945年2月下旬3月ポメラニア戦線従軍ポメラニア戦線撤退後の「シャルルマーニュ師団連隊)ではジャン・オリヴィエSS義勇曹長第57SS大隊第4中隊所属し小隊長務めた1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊第1小隊長として参加4月26日ノイケルンの戦い小隊先陣切っていたが、(敵の砲撃によって)中隊17名が戦死した時に脚に重傷負い救援を待つ間、戦友たちによってナイフで脚の切断手術が行われた(その後消息不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers d'origine inconnue : Sous-officiers : FIESELBRAND" ^ガストン・クーロンSS義勇上等兵(SS-Frw. Strmm. Gaston Coulomb):ベルリン市街戦両脚失ったフランスSS突撃大隊第4中隊の上等兵 1921年4月14日フランス共和国ヴァール県サン=マキシマン(Saint-Maximin)生まれ1943年フランス人義勇兵として武装親衛隊志願入隊(後に第8フランスSS義勇突撃旅団所属)。 1945年4月末のベルリン市街戦にはジャン・オリヴィエフランスSS突撃大隊第4中隊一員として参加したが、4月29日、(戦闘中赤軍砲撃崩壊した建物瓦礫によって)重傷負って両脚切断した両脚失いつつもクーロン大戦生き延びてフランスへ帰国したが、1945年10月19日トゥーロン軍事裁判所裁判かけられ終身強制労働刑を宣告された(その後消息不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"ANNEXES Ⅰ: Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Sturmbrigade : Gaston COULOMB"

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ジャン=クレマン・ラブルデット」の記事における「脚注・人物」の解説

^ シャルル・ルメグ武装中尉(W-Ostuf. Charles Roumégous):ラブルデットの前任第57SS大隊第1中隊1915年8月26日フランス共和国エロー県モンペリエMontpellier生まれフランス民兵団員(Milicien)。1944年夏、連合軍によってフランスナチス・ドイツ占領下から解放されるドイツへ避難し1944年11月武装親衛隊入隊編入)。SS所属武装中尉(Waffen-Obersturmführer der SS任官後、SS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊II大隊長ルネ=アンドレ・オービッツ武装大尉(W-Hstuf. René-André Obitz)の副官務めた1945年3月初旬ポメラニア戦線で「シャルルマーニュ師団戦地再編成実施した際に、師団最良部隊構成された「行進連隊第I大隊」(Ier Bataillon / Régiment de Marche)の第1中隊長就任。この時のルメグ武装中尉数ヶ月前に入隊した新人将校であったが、居並ぶ第8フランスSS義勇突撃旅団出身ベテラン兵前にして臆することなく毅然としていた。その後行進連隊第I大隊一員としてディフェノ(Dievenow、現ジブヌフ(Dziwnów))経由ポメラニア戦線からの撤退成功した。 しかし、ポメラニア戦線から生還した後にルメグは戦意喪失し再編後の「シャルルマーニュ師団連隊第57SS大隊第1中隊長の職をジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉交代その後は「シャルルマーニュ師団連隊建設大隊(Baubataillon)第1中隊長務め1945年5月初旬ドイツ北部米英連合軍投降しノイエンガンメ強制収容所跡地捕虜収容所送られた。 1945年5月16日、ルメグ武装中尉は「シャルルマーニュ最後師団長ヴァルター・ツィンマーマンSS大佐(SS-Staf. Walter Zimmermann)が捕虜収容所内で催した師団解散式の場に居合わせたフランス人将校1人となった。 シャルル・ルメグは大戦生き延びたが、戦後1957年10月1日自殺した(満42歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006)p307, 494. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1: officiers »(lulu, 2011)、"Officiers issus de la Milice Française : Charles ROUMÉGOUS" ^ ジャン・コサールSS義勇連隊上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Jean Cossard):フランスSS突撃大隊第1中隊副官 1922年フランス共和国ブーシュ=デュ=ローヌ県マルセイユMarseille生まれ1941年末にドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)へ入隊し、第10中隊第1小隊所属したフランス人義勇兵入隊時の階級陸軍一等兵(Gefreiter))。1942年6月2日白ロシアにおける対パルチザン戦活躍する顔面負傷。後に二級鉄十字章受章した1943年11月武装親衛隊入隊1944年1月から2月までポーランド西部ポーゼン=トレスコウSS下士官学校(SS-Unterführerschule Posen-Treskau)で教育受けた後、SS義勇伍長(SS-Frw. Unterscharführer任官1944年8月ガリツィア戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊Ier Bataillon / 8. Französische-SS-Freiwilligen-Sturmbrigade)の一員として参加したが、8月10日戦闘負傷して後送された。 SS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」では1945年1月からキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag:チェコベーメンにあるSS軍学校)で将校教育を受け、1945年3月付でSS義勇連隊上級士官候補生(SS-Frw. Standarten-OberJunker)となった将校教育課程修了後の4月14日ドイツ北部町村カルピン(Carpin)で再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰合流)し、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉第57SS大隊第1中隊配属された。 ジャン・コサールSS義勇連隊上級士官候補生は「シャルルマーニュ師団生存者の中で戦闘継続希望した将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊第1中隊副官としてベルリン市街戦参加4月26日午後、テンペルホーフ区における戦闘死亡した。 なお、ベルリン市街戦でジャン・コサールは戦死したが、戦後1946年7月16日マルセイユ行われた欠席裁判でコサールに死刑判決下った。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Jean COSSARD" ^ アンドレ・ブルミエSS義勇連隊上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. André Boulmier):フランスSS突撃大隊第1中隊第1小隊1925年1月3日生まれ生年を「1923年」とする記述誤り。なお、生誕地不明)。偽名は「ユルミエ」(Ulmier)。 1943年3月国家社会主義自動車軍団NSKK)を脱走し武装親衛隊志願した最初フランス人義勇兵グループ1人アルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)で基礎訓練受けた後、1944年8月ガリツィア戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊一員として参加したSS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」では(ちなみに、ブルミエの弟も「シャルルマーニュ」旅団/師団一員1945年1月からキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育を受け、1945年3月付でSS義勇連隊上級士官候補生(SS-Frw. Standarten-OberJunker)となった将校教育課程修了後の4月14日ドイツ北部町村カルピン再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰合流)し、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉第57SS大隊第1中隊配属された。 アンドレ・ブルミエSS義勇連隊上級士官候補生は「シャルルマーニュ師団生存者の中で戦闘継続希望した将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊第1中隊第1小隊長としてベルリン市街戦参加戦闘中日付不明)に負傷して救護所後送された(その後消息不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : André BOULMIER" Grégory Bouysse « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine »(lulu, 2012)、"Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-Sturmbrigade : André BOULMIER" ^ ジャック・ル・メニャン・ド・ケランガSS義勇連隊士官候補生(SS-Frw. StdJu. Jacques Le Maignan de Kérangat):フランスSS突撃大隊第1中隊第3小隊1924年7月1日生まれ生誕地不明。なお、「ル・メニャン」の綴りを « Le Meignan » とする記述誤り)。 国家社会主義自動車軍団NSKK出身文献によっては1943年3月NSKK脱走し武装親衛隊志願入隊した最初フランス人義勇兵グループ1人とされているが、実際に1943年7月武装親衛隊志願したちなみに同時期に武装親衛隊入隊したクリスティアン・マルトレ(Christian Martrès)はNSKK時代からの親友)。 ベルギーの首都ブリュッセルにあるSS隊員武装親衛隊外国人義勇兵募集事務所入隊手続き済ませた後、ドイツショッテンSS入隊準備学校(SS-Vorschule Schotten)を経てゼンハイム親衛隊訓練施設移動。なお、後にル・メニャン・ド・ケランガは第8フランスSS義勇突撃旅団配属されたが、1944年8月ガリツィア戦いには参加していなかった。 SS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」では1945年1月からキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育を受け、1945年3月付でSS義勇連隊士官候補生(SS-Frw. Standarten-Junker)※となった将校教育課程修了後の4月14日ドイツ北部町村カルピン再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰合流)し、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉第57SS大隊第1中隊配属された。 ※フランスの歴史Eric Lefèvre調査確認され階級Robert Forbes著書におけるル・メニャン・ド・ケランガの階級連隊上級士官候補生」(Standarten-OberJunker)は誤り。 ジャック・ル・メニャン・ド・ケランガSS義勇連隊士官候補生は「シャルルマーニュ師団生存者の中で戦闘継続希望した将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊第1中隊第3小隊長としてベルリン市街戦参加4月29日戦闘死亡した(満20歳没)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Jacques Le MAIGNAN De KÉRANGAT" ^ ジャン=マリ・クロアジル武装連隊上級士官候補生(W-StdObJu. Jean-Marie Croisile):フランスSS突撃大隊第1中隊副官 1922年5月15日生まれ生誕地不明)。偽名は「クロセイユ」(Croseille)もしくは「クロアジエ」(Croisier)。姓の綴りを « Croisille » としている文献もある。 1941年に(ナチス・ドイツ占領下フランスの)フランス陸軍第6アルペン猟兵大隊(6ème Bataillon de Chasseurs Alpins (6ème BCA))へ入隊したが、1943年6月ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)のフランス人義勇兵として東部戦線出発し反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊)第III大隊第9中隊所属1944年9月1日再編成伴って武装親衛隊移籍した反共フランス義勇軍解隊に伴いジャンマリそれまで功績を嘉されて二級戦功十字章授与され127名の将兵1人となり、併せて下士官昇進した)。 ちなみにジャン=マリ・クロアジルの 父 ジャン・クロアジル(Jean Croisile):1894年9月2日フランス共和国パ=ド=カレー県エナン=リエタール(Hénin-Liétard、現エナン=ボーモン(Hénin-Beaumont))生まれ第一次世界大戦期フランス陸軍予備役騎兵大尉 弟 アラン・クロアジル(Alain Croisile):1926年6月10日フランス共和国首都パリParis生まれ武装親衛隊志願入隊し、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊一員として1944年8月ガリツィア戦い参加したジャンマリ父親最終的に大戦生き延びたが、弟はガリツィア戦死)。 SS所属武装伍長(Waffen-Unterscharführer der SS任官後、ジャン=マリ・クロアジルはSS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊第3中隊所属していたが、1945年1月からはキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育を受け、1945年3月付でSS所属武装連隊上級士官候補生(Waffen-Standarten-OberJunker der SSとなった将校教育課程修了後の4月14日ドイツ北部町村カルピン再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰合流)し、ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉第57SS大隊第1中隊配属された。 ジャン=マリ・クロアジル武装連隊上級士官候補生は「シャルルマーニュ師団生存者の中で戦闘継続希望した将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊第1中隊副官としてベルリン市街戦参加4月27日午後ベルリン地下鉄トンネル内で繰り広げられ戦闘負傷して救護所後送された。 なお、(ベルリン市街戦参加した武装親衛隊フランス人義勇兵としては)非常に珍しい事例であるが、ジャン=マリ・クロアジルはベルリンからの脱出成功してフランスへ無事帰国したその後消息不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Jean-Marie CROISILE"Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1: officiers »(lulu, 2011)、"Officiers engagés en 1943-1944 : Jean CROISILE" Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Soldats & Caporaux : Alain CLOISILE" Grégory Bouysse « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine »(lulu, 2012)、"Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-Sturmbrigade : Alain CLOISILE"

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ピエール・ロスタン」の記事における「脚注・人物」の解説

^ ジャック・シャヴァン武装連隊上級士官候補生(W-StdObJu. Jacques Chavant):フランスSS突撃大隊第3中隊第3小隊フランス共和国ローヌ県リヨンLyon生まれ生年月日不明)。ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)に所属していたフランス人義勇兵1944年6月下旬ボブル川の戦いで対戦車砲兵として活躍し二級鉄十字章受章した1944年9月1日再編制伴って武装親衛隊移籍し1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag)で将校教育課程受講4月14日カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ師団連隊)にSS所属武装連隊上級士官候補生(Waffen-Standarten-Oberjunker der SS)として合流しピエール・ロスタンの第58SS大隊第6中隊小隊長務めた1945年4月24日フランスSS突撃大隊第3中隊第3小隊長としてベルリン目指し行軍開始したが、道中車輌故障したために行軍断念してカルピン帰還その後は「シャルルマーニュ師団連隊)第58SS大隊(SS-Bstaillon 58)の一員としてドイツ北部米英連合軍投降した。 ジャック・シャヴァンは大戦生き延びたが、フランス帰国後、フレンヌにあるフレンヌ刑務所Maison d'arrêt de Fresnes)に収監された(1946年に同刑務所ロスタン再会したが、その後消息不明)。«出典»Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Jacques CHAVANT" ^ ジャン・デュムラン武装連隊上級士官候補生(W-StdObJu. Jean Dumoulin):フランスSS突撃大隊第3中隊副官 1917年6月29日フランス共和国ソンム県アミアンAmiens生まれ偽名は「デムラン」(Desmoulins)。ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)第大隊所属していたフランス人義勇兵で、ロスタン知人1944年9月1日再編制伴って武装親衛隊移籍し1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育課程受講4月14日カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ師団連隊)にSS所属武装連隊上級士官候補生(Waffen-Standarten-Oberjunker der SS)として合流しロスタンの第58SS大隊第6中隊所属1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第3中隊副官として参戦したが、4月26日朝、ノイケルンの戦い開始され直後に敵の機銃掃射浴びて戦死した(満27歳没)。 なお、ベルリン市街戦でジャン・デュムランは戦死したが、戦後1945年5月22日アミアン行われた欠席裁判でデュムランには死刑判決下された。«出典»Bouysse 前掲書、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Jean DUMOULIN" ^ ガストン・ボムガルトネ武装連隊上級士官候補生(W-StdObJu. Gaston Baumgartner):フランスSS突撃大隊第3中隊第2小隊1914年フランス共和国首都パリParis生まれ偽名は「ガルディニエ」(Gardinier)。ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)(ロスタン同じく大隊第9中隊)に所属していたフランス人義勇兵で、二級戦功十字章受章者1944年9月1日再編制伴って武装親衛隊移籍し1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育課程受講4月14日カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ師団連隊)にSS所属武装連隊上級士官候補生(Waffen-Standarten-Oberjunker der SS)として合流しピエール・ロスタンの第58SS大隊第6中隊小隊長務めた1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第3中隊第2小隊長として参戦したが、4月26日ノイケルンの戦い足首銃弾命中して負傷戦後フランス送還されたボムガルトネは1946年6月12日パリ裁判受けたその後消息不明)。«出典»Bouysse 前掲書、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Gaston BAUMGARTNER" ^ ラウル・ジノー武装連隊上級士官候補生(W-StdObJu. Raoul Ginot):フランスSS突撃大隊第3中隊第1小隊1921年12月14日生まれ生誕地不明)。偽名は「ジナ」(Ginat)。ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)に所属していたフランス人義勇兵1944年9月1日再編制伴って武装親衛隊移籍し1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育課程受講4月14日カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ師団連隊)にSS所属武装連隊上級士官候補生(Waffen-Standarten-Oberjunker der SS)として合流しロスタンの第58SS大隊第6中隊所属した1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第3中隊第1小隊長として参戦4月26日ノイケルンの戦い戦闘開始直後ジノー恐怖のあまり麻痺状態に陥っていたものの、間もなく闘志冷静さ取り戻した)の最中、肘に銃弾命中して負傷したが、治療のための後送命令拒否して前線に留まった。その後ジノーベルリン市街戦生き延びて終戦迎えフランス帰国後、フレンヌ刑務所収監された(1946年、同刑務所ロスタン再会)。 2011年6月5日、ラウル・ジノーはパリ亡くなった(満89歳没)。«出典»Bouysse 前掲書、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Raoul GINOT" ^ ギイ・ジャック・デデュー(Guy Jacques Dedieu):フランスSS突撃大隊第3中隊隊員 1918年6月29日フランス共和国オート=ガロンヌ県トゥールーズToulouse生まれフランス民兵団員。1944年夏にフランスナチス・ドイツ占領下から解放されるドイツへ避難し1944年11月武装親衛隊入隊編入)。階級SS所属武装連隊士官候補生(Waffen-Standarten-Junker der SS)(他の文献ではSS所属武装曹長(Waffen-Oberscharführer der SS))。 1944年11月中旬から1945年2月の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校在籍1945年4月末のベルリン市街戦ではピエール・ロスタン指揮執るフランスSS突撃大隊第3中隊所属した1945年4月26日5月1日誤り)、ノイケルンの戦い頭部銃弾命中して戦死した(満26歳没)。«出典»Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Guy DEDIEU" Grégory Bouysse "Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine"(lulu, 2012)、"Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-Milice Française : Guy DEDIEU" ^ セルジュ・プロトポポフ武装連隊士官候補生(W-StdJu. Serge Protopopoff):フランスSS突撃大隊第4中隊代行生年月日不明推定出生年1920年代前半フランス共和国首都パリ生まれロシア人で、フランスに帰化両親ロシア革命フランス亡命したロシア人)。なお、セルジュ・プロトポポフの祖父(「父親」とする記述誤り)はリューリク朝由来する貴族ウフトムスキー家(Oukhtomsky)の血を引くロシアの政治家で、ロシア帝国最後内務大臣となったアレクサンドル・プロトポポフAlexandre Protopopov / Александр Протопопов)であった1918年10月27日ボリシェヴィキ政権によってモスクワ処刑)。 成長後フランス民兵団参加したが、1943年12月ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)に志願入隊フランスロワレ県オルレアン近郊モンタルジにある反共フランス義勇軍幹部養成学校教育受けた後、東部戦線白ロシア出発し陸軍曹長Feldwebel)として反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊本部所属したプロトポポフはこの時期ロスタン知己の仲になった)。 1944年9月1日再編制伴って武装親衛隊移籍「シャルルマーニュ」旅団第58SS所属武装擲弾兵連隊10中隊配属されたが、1945年1月から4月初旬の間はキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育課程受講※。4月14日カルピン(Carpin)で再編制中の「シャルルマーニュ師団連隊)にSS所属武装連隊士官候補生(Waffen-Standarten-Junker der SS)として合流した再編制後の「シャルルマーニュ師団連隊)で戦闘継続希望し1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊副官として参戦中隊長ジャン・オリヴィエSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier)の負傷後は第4中隊長代行として活躍し市街戦中に合計5輌の赤軍戦車討ち取った1945年5月1日フランスSS突撃大隊第3中隊ピエール・ロスタンとの会話中に飛来しソビエト赤軍迫撃砲弾によって死亡。(ベルリン市街戦中に戦車5輌を撃破していた功績を讃えられ、プロトポポフ戦死後に)一級鉄十字章追贈された。※Robert Forbes著書p394の記述(彼(プロトポポフ)はロア大尉(Hstuf. Roy)の第57SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊と共にポメラニア戦線従軍した)は誤り。«出典»Axis History ForumBoard indexAxis HistoryForeign Volunteers & Collaboration - Standartenjunker Protopopoff French SS Grégory Bouysse "Waffen-SS Français volume 2"(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Serge PROTOPOPOFF"

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ピエール・ミシェル」の記事における「脚注・人物」の解説

^ マルセル・アルディSS義勇連隊士官候補生(SS-Frw. StdJu. Marcel Hardy):フランスSS突撃大隊第2中隊第1小隊長 生年月日生誕地不明偽名は「ラルディ」(Lardy)。1943年フランス人義勇兵として武装親衛隊志願入隊1944年春チェコのネヴェクラウ(Neweklau、チェコ語表記ネヴェクロフ(Neveklov))での訓練中に重傷負ったため、1944年8月ガリツィア戦いには参加していなかった。 マルセル・アルディSS義勇連隊士官候補生※は1945年4月末のベルリン市街戦フランスSS突撃大隊第2中隊第1小隊長として参加したが、4月26日ノイケルンの戦い最中味方との連絡失って孤立しソビエト赤軍捕虜となったその後消息不明)。 ※Robert Forbes著書におけるアルディ階級は「曹長」(Oberscharführer)であるが、「連隊士官候補生」(Standarten-Junker)はEric Lefèvre調査著書)で判明した階級。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Marcel HARDY" ^ ジャン=フィリップ・ネロニSS義勇連隊士官候補生(SS-Frw. StdJu. Jean-Philippe Neroni):フランスSS突撃大隊第2中隊第2小隊1923年7月7日フランス領アルジェリアフィリップヴィルPhilippeville、現スキークダ(سكيكدة / Skikda))生まれピエ・ノワール(Pied-Noir)。 1944年アルジェリア出発して武装親衛隊志願入隊した(ネロニは第8フランスSS義勇突撃旅団一員となったが、1944年8月ガリツィア戦い参加してたかどうかは不明)。 SS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊第Ⅰ大隊第2中隊小隊長務めていたが、1945年1月から「キーンシュラークSS装甲擲弾兵学校」(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag:チェコベーメンにあるSS軍学校)で将校教育を受け、(おそらく1945年3月付で)SS義勇連隊士官候補生(SS-Frw. Standarten-Junker)※となった1945年2月下旬3月ポメラニア戦線には不参加)。将校教育課程修了後の4月14日ドイツ北部町村カルピン(Carpin)で再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)へ他のフランス人士官候補生20名以上と共に復帰合流)し、第57SS大隊第2中隊小隊長務めた。 ※Eric Lefèvre著書に基づく階級Robert Forbes著書におけるネロニの階級連隊上級士官候補生」(Standarten-OberJunker)は誤りジャン=フィリップ・ネロニSS義勇連隊士官候補生は「シャルルマーニュ師団連隊)の中で戦闘継続希望した将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊第2中隊第2小隊長としてベルリン市街戦参加した(が、その後消息不明)。 戦後1945年7月26日フランスロワレ県オルレアンOrléans)で行われた欠席裁判でネロニにフランス国剥奪判決下った。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Jean-Philippe NERONI" ^ マルク・モングール武装曹長(W-Oscha. Marc Montgour):フランスSS突撃大隊第2中隊第3小隊1914年4月23日フランス共和国ローヌ県リヨンLyon生まれ。姓の綴りを « Mongourd » とする記述誤り(« Mongourd » はクルーズ県出身者多く見られる姓で、« Montgour » はリヨン出身者多く見られる姓 )。戦前リヨンにおいて一定の顧客層を持つ医者であり、また、名うてプレイボーイとしても知られた。 フランス民兵団リヨン支部Milice Française de Lyon)の一員となった後の1944年2月から3月の間、ヴィシー警察機動予備隊(GMR保安機動隊前身)・国家憲兵隊フランス民兵団フランス占領ドイツ軍オート=サヴォワ県グリエール高原Plateau des Glièresグリエールマキ拠点)において実施した治安維持活動マキゲリラ掃討作戦民兵戦闘部隊フランギャルド」の中隊長chef de centaine / Franc-Garde)の1人として参加その後リムーザン地方派遣され、ヴィクトル・ド・ブルモン(Victor de Bourmont)指揮下の民兵治安維持集団Eグループ」(groupment E)でも中隊長務めた1944年夏、連合軍によってフランスナチス・ドイツ占領下から解放されるとモングールはドイツへ避難した(なお、モングールの妻はリヨン解放の際にマキ系の武装勢力FTP」(フランス共産党奉じるレジスタンス組織)に捕まり拷問受けて乳首切り落とされた)。 1944年11月フランス民兵団出身フランス人義勇兵として武装親衛隊入隊編入)。SS所属武装曹長(Waffen-Oberscharführer der SS任官後、SS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」では第33SS所属武装戦車猟兵大隊突撃砲中隊護衛小隊随伴歩兵小隊)長を務めチェコベーメンにおける突撃砲訓練従事した。 マルク・モングール武装曹長は「シャルルマーニュ師団連隊)の生存者の中でベルリン行き戦闘継続)を希望した将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊第2中隊第3小隊長としてベルリン市街戦参加4月25日午後中隊長ピエール・ミシェルSS義勇中尉命令に従って自分小隊率いて担当区域斥候出発し25日夜から26日明け方にかけてソビエト赤軍交戦した4月26日朝のノイケルンの戦いでは第2中隊先鋒としてベルリン通りBerliner Straße、現カール=マルクス通り(Karl-Marx-Straße))からリヒャルト通り(Richardstraße)に沿って出撃したが、戦闘開始直後に第2中隊赤軍猛烈な弾幕射撃直面して壊乱その後、モングールは戦闘中日付不明)に味方との連絡失って孤立負傷し赤軍捕虜となった釈放後(終戦後)、モングールは第二次世界大戦序盤ドイツ軍捕虜となったフランス軍将兵ドイツ徴用されたフランス人労働者集団紛れ込んでフランスへ帰国したが、アルデンヌ県シャルルヴィル=メジエールCharleville-Mézières)において血液型の刺青SS隊員特徴)を発見され官憲逮捕された(指名手配書によると、モングールの特徴は「身長170cm、痩せ型瀟洒赤毛色白」)。 1946年上旬故郷リヨン裁判が行われ、フランス民兵団時代活動原因死刑判決受けたモングールは銃殺刑処された。※ ※処刑の際にモングールは銃殺隊の指揮権与えられていた(射殺されるタイミング自分決定することになった)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006)、p176, 179, 252, 395, 412-413, 418-419, 510. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Sous-officiers : Marc MONTGOUR"

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アンドレ・レジボ」の記事における「脚注・人物」の解説

^ ダニエル・ウーテルSS少尉(SS-Ustuf. Daniel Wouters):「デリクス」戦闘団(第69SS擲弾兵連隊第Ⅰ大隊)第1中隊第1小隊1923年12月2日ベルギー王国生まれレクシズム青少年組織「ジュネス・レジオネール」(Jeunesse Légionnaire)の一員であり、1942年3月ワロニー部隊ドイツ陸軍373ワロン歩兵大隊)に入隊1943年6月1日再編制伴って武装親衛隊移籍SS突撃旅団「ヴァロニェン」の一員として1943年秋から東部戦線ウクライナ出陣し1944年1月6日のサクレフカ攻撃の際の活躍によって二級鉄十字章受章。続くノヴォブダ戦いで活躍し一級鉄十字章受章した1944年2月コルスン包囲戦から生還した後は(レジボと同じくキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag)に入学して将校教育を受け、1944年11月9日SS少尉(SS-Untersturmführer)任官第28SS義勇擲弾兵師団「ヴァロニェン」配属後、当初は第69SS擲弾兵連隊第7中隊第2小隊長を務めていたが、後にアンドレ・レジボSS少尉の第1中隊転属し、第1小隊長を務めた。 ダニエル・ウーテルSS少尉は「ヴァロニェン」師団参加した1945年2月以降主な戦い1945年2月3月ポメラニア戦線、アルトダム橋頭堡防衛戦)のいずれも生き残ってきたが、終戦目前1945年4月20日オーデル川西岸シラースドルフ(Schillersdorf、現Moczyły)で戦死した(満21歳没)。«出典»Eddy de Bruyne & Marc Rikmenspoel "For Rex and for Belgium: Léon Degrelle and Walloon Political & Military Collaboration 1940-1945"(Helion & Co., 2004)p140, 161, 165, 211, 244

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アンリ・フネ」の記事における「脚注・人物」の解説

^ ジルベール・ドラットルSS義勇上等兵 (SS-Frw. Strmm. Gilbert Delattre※):武装親衛隊フランス人義勇兵部隊初の戦死者(第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊第1小隊の上等兵) ※Gilbert Delattre…Robert Soulat(ロベール・スーラ)の著書によるとドラットルの名は「アルベール」(Albert) であるが、武装親衛隊フランス人義勇兵に関する他の文献著者 (Eric Lefèvre, Henri Mounine) はいずれもドラットルの名を「ジルベール」(Gilbert) と表記している(なお、Jean Mabireの著書Robert Forbes著書では「ドラットル上等兵」(Sturmmann Delattre) とだけ表記されている)。 1924年5月31日フランス共和国にある多数の同じ地名のうち、いずれかサンタマン (Saint-Amand) 生まれ。 (正確な時期不明であるが、おそらく1943年以降に)フランス人義勇兵として武装親衛隊志願入隊した後、アルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設 (SS-Ausbildungslager Sennheim) で訓練を受け(ゼンハイムでは第2中隊所属)、後に第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊第1小隊一員として1944年8月ガリツィア戦い参加した。 (Robert Forbes(2006) p79 の日付では8月9日の「翌日」とされているが)1944年8月9日第3中隊戦区にある偵察していたジルベール・ドラットルSS義勇上等兵ソビエト赤軍狙撃兵撃たれ死亡しガリツィア戦い武装親衛隊フランス人義勇兵部隊初陣)で最初に戦死したフランス人義勇兵となった(満20歳没)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Soldats & Caporaux : Gilbert DELATTRE" ^ ロベール・ランベールSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Robert Lambert):第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊小隊長 → 第2中隊長代行1918年2月10日生まれ生誕地不明)。 第二次世界大戦前フランスにおける極右反ユダヤ主義政党1つフランス党」(Parti Franciste:マルセル・ビュカール (Marcel Bucard) が1933年9月創設した政党)の支持者フランス陸軍入隊後、士官候補生としてモロッコ・スィパーヒー連隊 (Régiment de Spahis Marocains (RSM)) に勤務した※。 ※モロッコ・スィパーヒー連隊勤務…後にランベール同じくフランス人義勇兵として武装親衛隊入隊するアベル・シャピィ (Abel Chapy) はスィパーヒー連隊時代同僚1人1943年25歳時にフランス人義勇兵として武装親衛隊志願入隊。(アンリ・フネ同じく1944年1月10日から3月4日までバート・テルツSS士官学校 (SS-Junkerschule Badlz) に在籍してフランス人将校特別課程第1期履修し1944年3月10日付でSS義勇少尉 (SS-Frw. Untersturmführer) に任官した1944年8月ガリツィア戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊フネ中隊)の小隊長第1小隊長、時期によって第2小隊長)として出陣8月16日からは指揮官相次いで負傷した第2中隊転属し、間もなく第2中隊長代行務めた1944年8月22日午前、モクレ (Mokre) の戦闘でロベール・ランベールSS義勇少尉腹部迫撃砲弾破片命中して重傷負った。この知らせ受けて駆けつけ大隊長ピエール・カンスSS義勇大尉担がれランベール救護所運ばれたが既に手の施しようがない瀕死の状態であり、数分後、大隊軍医ピエール・ボンヌフォアSS義勇中尉看取られながら死亡した(満26歳没)。その後ランベールには一級鉄十字章追贈された。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p105 Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » (Lulu, 2011) : "Officiers engagés en 1943-1944 : Robert LAMBERT" ^ シャルル・ラシェSS義勇連隊上級士官候補生 (SS-Frw. StdObJu. Charles Laschett):第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊第4小隊1920年3月2日フランス共和国首都パリ (Paris) 生まれ大学生の頃は政治学専攻しまた、ジャン・ボワッセル (Jean Boissel) 率い反ユダヤ・親ドイツ政治団体「ル・フロン・フラン」(Le Front Franc)※に所属していた。※ル・フロン・フラン…シャルル父親モーリス・ラシェ (Maurice Laschett) はこの政治団体責任者1人1943年23歳時にフランス人義勇兵として武装親衛隊志願入隊当初下士官候補生として訓練受けていたが、成績優秀を理由に他のフランス人下士官候補生数名と共に選抜され士官候補生コース編入1944年1月10日から3月4日までバート・テルツSS士官学校フランス人将校特別課程第1期履修し3月10日付でSS義勇連隊上級士官候補生 (SS-Frw. Standarten-OberJunker) となった。※他のフランス人下士官候補生数名ラシェ以外に選抜され下士官候補生はルネ・ファヤール (René Fayard)、ピエール・ユグ (Pierre Hug)、アンリ・クライス (Henri Kreis)、ジョゼフ・ペロン (Joseph Peyron)。 シャルル・ラシェSS義勇連隊上級士官候補生1944年8月ガリツィア戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊フネ中隊)の小隊長として出陣8月21日未明、ポレビ (Poreby)(推定)に来襲した親衛赤軍部隊包囲された時、ラシェ小隊頑強に抵抗した。しかし、第3中隊本部によるラシェ小隊救出数回試み全て赤軍阻まれ失敗したことに加え最終的に弾薬尽きたことでラシェ小隊生存者降伏余儀なくされ、赤軍捕虜となった(この時、小隊長ラシェ戦傷負っていた)。 1945年第1週、シャルル・ラシェはソビエト連邦タンボフ収容所衰弱死した(満24歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p27, 56, 59, 99. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Aspirants : Charles LASCHETT" ^ イヴォン・プリュヌネクSS義勇上等兵 (SS-Frw. Strmm. Yvon Prunennec):第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊分隊長1922年フランス共和国ブルターニュ (Bretagne) 生まれ偽名は「イヴォン・トレメル」(Yvon Trémel)。 第二次世界大戦初期後期 イヴォン・プリュヌネクの家族熱烈なドイツ主義・反ナチ主義であり、ドイツとの戦争賛成していたが、イヴォン本人15歳の時(1937年)からブルトン国家党 (PNB) に所属しており、ドイツ対す反感持っておらず、ドイツとの戦争望んでいなかった(そのため家族意見対立しドイツとの戦争第二次世界大戦)が勃発した後にイヴォン家族から「裏切り者」と罵倒された)。 1940年フランスの戦い最中1940年6月イギリス本土避難しようとしたが、ドイツ軍の素早い進撃によって渡英試み失敗フランス敗戦休戦)後、街の酒場初めドイツ兵の一団目撃したが、当時フランス新聞ラジオがしきりに宣伝していたドイツ兵(「食料が無いので常に飢えており、衣服が無いので紙を身体巻いている」)とはまった異なドイツ兵たちの屈強な体格美し軍服礼儀正しい振る舞い侵略軍の兵でありながら敵国の店の品物略奪せず、店主商品価格尋ねてから正確に代金支払って購入)に感銘を受け、ドイツ人対す好感深めた(と同時に、嘘の宣伝国民欺いた上に敗戦招いたフランス政府愛想を尽かした)。 その後のイヴォン・プリュヌネクはドイツ軍務に就いて前線で戦うことを希望していたが、ドイツ陸軍指揮下で東部戦線従軍中の「フランス部隊」(反共フランス義勇軍団)へ入隊する気は無く1944年2月22日、「ヨーロッパ人戦士集合体」である武装親衛隊志願入隊した1944年2月12月 訓練期間 武装親衛隊入隊後、イヴォン・プリュヌネクはアルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設訓練を受け、1944年6月1日付でフランスSS義勇突撃旅団(後の第8フランスSS義勇突撃旅団)第1中隊配属8月ガリツィア戦い参加してたかどうかは不明であるが、10月から12月まではチェコのネヴェクラウ(Neweklau、チェコ語表記ネヴェクロフ (Neveklov))で下士官候補生教育受けていた。 1945年2月下旬シャルルマーニュ師団ポメラニア戦線1945年2月下旬、イヴォン・プリュヌネクSS義勇上等兵は第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊分隊長としてポメラニア戦線従軍2月24日夜、ハインリヒスヴァルデの戦いで重傷負って後送された(当初両腕被弾して救護所運ばれたが、第I大隊救護所として使用していた農場ソビエト空軍機に爆撃されたことによってさらに負傷した)。 戦後 イヴォン・プリュヌネクは1945年2月ポメラニア戦線重傷負った第二次世界大戦生き延び2006年84歳)の時点でも健在であったその後消息不明)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) pp.60-61., 264. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Soldats & Caporaux : Yvon PRUNENNEC" ^ ギイ・クーニルSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Guy Counil):第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊1924年4月2日フランス共和国ソーヌ=エ=ロワール県キュ=レ=ロシュ (Culles-les-Roches) 生まれ当初民間学生であったが、1944年初旬フランス人義勇兵として武装親衛隊志願入隊編成中のフランス人義勇兵旅団(後の第8フランスSS義勇突撃旅団)に配属され1944年5月1日から9月9日まで「キーンシュラークSS装甲擲弾兵学校」(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag:チェコベーメンにあるSS軍学校)に在籍卒業後の9月9日SS義勇連隊上級士官候補生 (SS-Frw. Standarten-OberJunker) となり、11月9日付でSS義勇少尉 (SS-Frw. Untersturmführer) に任官した。 第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊長を務め1945年2月下旬ポメラニア戦線従軍。ハインリヒスヴァルデに進軍する際は第I大隊先鋒務めた1945年2月24日夜、ギイ・クーニルSS義勇少尉はハインリヒスヴァルデの戦いで墓地進撃していた時、頭部銃弾命中して戦死※した。「シャルルマーニュ師団将兵中には物資不足が原因ヘルメットさえ装備できなかった者が少なからずいたが、クーニルもそのうち1人であった(満20歳没)。 ※墓地進撃していた時、頭部銃弾命中して戦死Jean Mabire « La Division Charlemagne » (Fayard, 1974. p285 / réédition : Grancher, 2005. p93) の記述当時、「シャルルマーニュ師団第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊本部伝令務めていたロジェ・ロベルティ (Roger Roberti) の証言に基づく記述)による。 ただし、Saint-Loup, pp.184-186. の記述では「ハインリヒスヴァルデ突入した後、第3中隊中央の交差点1時間以上維持した。しかし、敵の重圧猛攻)によって死傷者続出したために第3中隊交差点からの後退余儀なくされ、その際中隊長クーニル少尉戦死した」とされており、クーニルの死の状況異なっている。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p264 Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume1 : officiers » (Lulu, 2011) : "Officiers engagés en 1943-1944 : Guy COUNIL" ^ ジャン・ブラジエSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Jean Brazier):第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第1中隊長予備連隊第I大隊補佐1918年5月4日フランス共和国ドゥー県ブザンソン (Besançon) 生まれフルネームは「ジャン・レオン・マリ・ブラジエ」(Jean Léon Marie Brazier) 、偽名は「ブラッスール」(Brasseur)。 第二次世界大戦初期 フランス軍時代 サン・シール陸軍士官学校サロン=ド=プロヴァンス航空学校 (l'école de l'Air de Salon-de-Provence) を卒業趣味スポーツで、特にラグビーウォーキング自転車競技熱心に取り組んだ第二次世界大戦勃発後の1939年9月23日フランス空軍入隊1940年6月フランス敗戦休戦)後はヴィシー政権仕え1941年9月30日までヴィシー政権軍所属除隊後セーヌ=マリティーム県ルーアン大学通った(この時期ブラジエジャック・ドリオ率いファシズム政党フランス人民党」(PPF) に加入した)。 1943年10月1944年9月 武装親衛隊への入隊訓練期間 1943年10月29日当時25歳の元フランス軍人ジャン・ブラジエはドイツ国武装親衛隊フランス人義勇兵として志願入隊した1944年1月24日から2月25日までブラジエポーランド西部ポーゼン=トレスコウSS下士官学校 (SS-Unterführerschule Posen-Treskau) で下士官教育を受け、1944年7月付でSS義勇連隊士官候補生 (SS-Frw. Standarten-Junker) となったその後ベーメンキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育を受け、9月1日付でSS義勇連隊上級士官候補生 (SS-Frw. Standarten-OberJunker) に昇進した1944年9月末、ブラジエダンツィヒ回廊のザーレッシュ (Saalesch) でクリスティアン・マルトレSS義勇連隊上級士官候補生 (SS-Frw. StdObJu. Christian Martrès) と共にドイツ海軍出身フランス人義勇兵訓練担当その後1944年11月9日付でSS義勇少尉 (SS-Frw. Untersturmführer) に任官した1945年2月下旬3月中旬シャルルマーニュ師団ポメラニア戦線1945年2月下旬、ジャン・ブラジエSS義勇少尉は第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第1中隊長としてポメラニア戦線従軍2月24日夜のハインリヒスヴァルデの戦いで第1中隊兵力大半失い3月戦地再編成時にブラジエは「シャルルマーニュ師団予備連隊 (Régiment de Réserve) へ転属となり、予備連隊第I大隊長エミール・モヌーズ武装大尉 (W-Hstuf. Émile Moneuse) の補佐務めたその後ポメラニア戦線撤退時にシャルルマーニュ師団本隊はぐれたブラジエは他の少数将兵同様にバルト海沿岸部都市コールベルクKolberg、現コウォブジェク (Kołobrzeg))へ辿り着いた(が、この時点ブラジエ戦意喪失していた)。 1945年3月中旬、ジャン・ブラジエSS義勇少尉コールベルク戦死※した(満26歳没)。 ※コールベルク戦死ブラジエ最期詳細不明。なお、中隊長ジャン・ブラジエSS義勇少尉をはじめ、第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第1中隊のほとんどの将兵独ソ戦末期1945年2月下旬3月中旬ポメラニア戦線死亡した。 «出典» RobertForbes«FOREUROPE:TheFrenchVolunteersoftheWaffen-SS»(Helion&Co.,2006)p150,163,263-265,275,308. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume1 : officiers » (Lulu, 2011) : "Officiers engagés en 1943-1944 : Jean BRAZIER" ^ マックス・キカンポアSS義勇曹長 (SS-Frw. Oscha. Max Quiquempoix):第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊小隊長(後に中隊長)→ 師団司令部馬車中隊先任曹長1916年9月10日フランス共和国ドルドーニュ県リベラック (Ribérac) 生まれ偽名場合の「キカンポア」の綴りは « Quicampoix »。 当初イゼール県ユリアージュ (Uriage) のフランス民兵団であったが、1943年フランス人義勇兵として武装親衛隊志願入隊SS義勇伍長 (SS-Frw. Unterscharführer) 任官後、1944年8月ガリツィア戦いには第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊フネ中隊)の小隊長として参加し戦功によって二級鉄十字章受章同年秋にSS義勇曹長 (SS-Frw. Oberscharführer) へ昇進した1945年2月下旬ポメラニア戦線には第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ第57SS所属武装擲弾兵連隊第I大隊第3中隊小隊長として従軍2月24日夜、ハインリヒスヴァルデの戦いで中隊長ギイ・クーニルSS義勇少尉戦死した後に第3中隊指揮引き継いだ1945年3月ポメラニア戦線で「シャルルマーニュ師団戦地再編成実施した際に師団司令部馬車中隊 (Fahrschwadron B) の中隊先任曹長 (Spieß) に就任。しかしその後ポメラニア戦線撤退時にキカンポアは赤軍捕虜となった戦後、マックス・キカンポアはフランスへ身柄送還され刑務所収監されたが、1947年フランス南部タルヌ県サン=シュルピス・ラ・ポンテ刑務所 (La prison de Saint Sulpice La Pointe) を脱獄。後に南アメリカへ移住したその後消息不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : Max QUIQUEMPOIX" ^ ジャック・フランツSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Jacques Frantz):フランスSS突撃大隊本部第1補佐1925年3月7日フランス共和国オー=ド=セーヌ県ブローニュ=シュル=セーヌBoulogne sur Seine、現ブローニュ=ビヤンクール (Boulogne-Billancourt):パリ市南西部パリ16区)に隣接する町生まれ1870年代ロレーヌからパリに移住した一家の子孫であり、両親敬虔なカトリック教徒1944年6月1945年4月 武装親衛隊への入隊訓練期間 パリ9区にあるリセ高等学校)「リセ・ロラン」(lycée Rollin、現リセ・ジャック=ドクール (lycée Jacques-Decour))を卒業したジャック・フランツは、1944年5月19歳時に自ら望んで武装親衛隊への入隊契約書署名した。これを知ったジャック父親反共主義者であると同時にナチ主義者でもあるカトリック教徒)は息子ドイツ武装親衛隊所属することを阻止するために入隊契約取り消そうとしたが、その甲斐もなく1944年6月1日にジャック・フランツはパリ鉄道駅からアルザス・ゼンハイム行き列車乗り込んだ。 ゼンハイム親衛隊訓練施設訓練終えた後、フランツ1944年9月から12月までチェコのネヴェクラウで下士官教育受けた1945年1月からはキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校で他のフランス人士官候補生と共に将校教育を受け、(おそらく)1945年3月付でSS義勇少尉 (SS-Frw. Untersturmführer) 任官※。1945年4月14日ドイツ北方町村カルピン再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)に復帰した。※SS義勇少尉任官…ジャック・フランツは1945年1月から4月までキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校在籍していたフランス人士官候補生20名以上のうち、将校少尉)の階級昇進した唯一の人物1945年4月フランスSS突撃大隊ベルリン市街戦) ジャック・フランツSS義勇少尉は「シャルルマーニュ師団生存者の中で戦闘継続希望した300名の将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊本部第1補佐 (1er Officier d'ordonnance) としてベルリン市街戦参加4月29日戦闘中に敵の迫撃砲弾破片顔面直撃して重傷負ったため、同僚(第2補佐)アルフレド・ドゥールー武装連隊上級士官候補生 (W-StdObJu. Alfred Douroux) に後事託し救護所搬送された。 戦後 ベルリン市街戦顔面重傷負いつつも第二次世界大戦生き延びたジャック・フランツは、戦後1945年6月フランスへ帰国した顔面戦傷治療するため、帰国後も数ヶ月間は病院での生活を余儀なくされた)。傷が癒えた後の1945年9月にはロー・スクール入学し法律勉強始めた。 しかし、終戦から間もない時期フランス当局官憲大戦中にドイツの軍服着たフランス国民(ドイツ国防軍武装親衛隊所属した対独協力者)を捜査逮捕していたため、1946年10月フランツ警察の捜査をかわすべくブーシュ=デュ=ローヌ県マルセイユ (Marseille) へ逃れた。しばらくはマルセイユ潜伏していたが、ここでフランツ父親父親弁護士、さらに自分高校時代の友人第二次世界大戦中対独レジスタンス一員であったが、高校時代の友人ジャック・フランツを助けるために尽力レジスタンス一員であることを示す証拠品お守りとしてフランツ持たせた人物)の援助得て、後にパリ帰ることができた。 1946年12月7日フランツ1人女性と結婚した(結婚際しフランツ経歴書を偽造した)。 その後1948年2月1日最後にジャック・フランツに関する記録閉じられている。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Officiers (absents du volume 1) : Jacques FRANTZ" ^ ピエール・ミレSS義勇兵長 (SS-Frw. Rttf. Pierre Millet):フランスSS突撃大隊本部伝令班長1924年生まれ生誕地不明)。 武装親衛隊入隊した年月日不明であるが、1944年8月ガリツィア戦い1945年2月下旬3月中旬ポメラニア戦線参加し、常に危険な任務果たした歴戦フランス人義勇兵※。※歴戦フランス人義勇兵…ただし、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊と第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」におけるピエール・ミレの所属部隊不明。 ピエール・ミレSS義勇兵長は「シャルルマーニュ師団生存者の中で戦闘継続希望した300名の将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊本部伝令班長としてベルリン市街戦参加4月26日ノイケルンの戦いの際に伝令任務何度も遂行したが、同日午後にノイケルン区役所前の道路戦死した20歳没)。 ベルリン市街戦でピエール・ミレは戦死したが、戦後1946年3月14日フランス共和国ロワレ県オルレアン (Orléans) で欠席裁判が行われ、ミレ公権フランス国籍)剥奪判決下った。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) pp.422-423. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue) : Sturmbrigade : Pierre MILLET" ^ アルベール・ロブラン武装連隊上級士官候補生 (W-StdObJu. Albert Robelin):フランスSS突撃大隊第1中隊分隊長生年月日生誕地不明フランス民兵団出身フランス人義勇兵で、1944年11月武装親衛隊入隊編入)。第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」第58SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊一員として1945年2月下旬3月中旬ポメラニア戦線従軍した1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第1中隊ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉中隊)の分隊長1人として参加4月26日夕方〜夜の間に繰り広げられたテンペルホーフの戦いで生き残り、翌27日、第1中隊戦況大隊長フネ伝えるために大隊本部派遣された。 1945年4月29日、アルベール・ロブランはベルリン市街戦戦死した。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Albert ROBELIN" ^ リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長 (SS-Frw. Hscha. Lucien Hennecart):フランスSS突撃大隊本部小隊長1908年生まれ生誕地不明)。偽名は「アンヌクール」(Hennecourt)。 1940年1943年 武装親衛隊入隊までの経歴 成長後、アンヌカールは1930年代フランス国内でナショナリズムあるいはファシズム標榜する様々な政党所属して過ごしたが、いずれの政党期待外れであったため、次第に「ヒトラー主義者」(hitlérienアドルフ・ヒトラー信奉するフランス人となった。 ただし、フランスで生まれ育ったアンヌカールにとっては政治気に食わないとしても「フランスフランス」であり、ドイツ国との戦争1940年5月6月フランスの戦い)が勃発した際にはフランス軍一員として祖国を守る戦い参加。しかし、多数戦車飛行機有するドイツ軍前にフランス軍敗北し、アンヌカール自身捕虜としてドイツ国内捕虜収容所送られた。 その後鉄条網囲まれた場所の中での生活を余儀なくされていてもなお、アンヌカールは戦闘参加することを望んでいた。彼は後にパリファシスト新聞Je Suit Partout』の記者ロベール・ブラジヤック (Robert Brasillach) に対し次のように述べている。 「戦争1940年フランスの戦い)は負けた。それでも俺は武器を手にしたまま(戦いの中で)死にたい」(« La guerre est perdue. Mais je voudrais mourir les armes à la main » ) もっとも、アンヌカールは 海外からドイツとの戦闘継続主張しているシャルル・ド・ゴールという名前のフランス軍将校自由フランス代表。1940年6月フランスの戦いの際にフランス陸軍1個機甲師団指揮しドイツ軍相手善戦フランス国内でドイツに従うことを主張するフィリップ・ペタン元帥ヴィシー政権代表。先の戦争1914年1918年大戦)の「ヴェルダン英雄」) のどちらにも賛同しなかった(アンヌカール自身意見によると、前者自由フランス)はあまりにも遠い場所にいるため、後者ヴィシー政権)はあまりにも弱すぎたため)。 1943年初旬ヴィシー政権抗議したにもかかわらずフランス軍捕虜の中で労働希望した者は外国人労働者としてドイツ国内働けるようになることをドイツ当局許可すると、アンヌカールも労働者1人となった。それから間もなく連日単調な労働飽きていた頃、捕虜武装親衛隊志願することができるという話を聞いたアンヌカールは「鉄条網外の世界何が起こっているのか」を見るために、(フランス人義勇兵として)武装親衛隊志願入隊した1944年8月 第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊ガリツィア戦いSS義勇兵長 (SS-Frw. Rottenführer) もしくはSS義勇伍長 (SS-Frw. Unterscharführer) 任官後、アンヌカールは1944年8月ガリツィア戦いに第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第2中隊文献によってはフネ第3中隊)の一員として出陣8月22日午前、モクレ (Mokre) を巡る激戦負傷して後送されたが、後にガリツィア戦での活躍認められ二級鉄十字章受章1944年10月付でSS義勇曹長 (SS-Frw. Oberscharführer) に昇進した。※1944年8月22日…この日の未明、アンヌカールは戦闘で脚に重傷負って激痛苦しんでいる部下1名の懇願聞き入れ、この部下に「とどめの一撃」(coup de grâce) を与えた1945年2月下旬4月中旬シャルルマーニュ師団ポメラニア戦線ドイツ北部1945年2月下旬、リュシアン・アンヌカールSS義勇曹長は第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」第57SS所属武装擲弾兵連隊II大隊第5中隊長としてポメラニア戦線従軍1945年3月師団戦地再編成伴って行進連隊第I大隊第2中隊長就任しケルリン戦いで活躍したポメラニア戦線撤退後、アンヌカールはSS義勇上級曹長 (SS-Frw. Hauptscharführer) に昇進1945年3月下旬からドイツ北部再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)の第57SS大隊第2中隊長務めたが、1945年4月中旬ピエール・ミシェルSS義勇中尉 (SS-Frw. Ostuf. Pierre Michel) の復帰同時期に第57SS大隊本部転属し、大隊本部小隊長就任した1945年4月フランスSS突撃大隊ベルリン市街戦1945年4月24日、リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長※はフランスSS突撃大隊本部小隊長としてベルリン市街戦参加4月26日ノイケルンの戦いでは戦闘開始直後負傷死亡)した第2中隊長ピエール・ミシェルSS義勇中尉代わりに第2中隊指揮して奮戦し4月27日付で「ノルトラント師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将から直々に一級鉄十字章授与された。※リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長当時37歳のアンヌカールはフランスSS突撃大隊将兵の中で最高齢人物長老)の1人4月28日未明赤軍迫ったベル=アリアンス広場(Belle-Alliance-Platz、現メーリング広場 (Mehringplatz) )にアンヌカールは戦車破壊駆逐)班1個を率いて出撃したが、この日の戦闘でアンヌカールは脚と膝に被弾しベルリン地下鉄駅構内救護所1つ搬送された。後に、見舞いに来た大隊長アンリ・フネSS義勇大尉から冗談交じりに「明日明後日にお前が戻ってくる時まで、(お前が倒す分のロシア人残しておく」と約束された時、アンヌカールは自分どれほど大尉フネ)を失望させたくないかという熱意フネ伝えた(しかし、敵弾命中した脚と膝の傷は深く結局アンヌカールはフランスSS突撃大隊戦列二度と復帰できなかった)。 戦後 リュシアン・アンヌカールはベルリン市街戦で脚と膝に重傷負った第二次世界大戦生き延び1996年フランス共和国ヴォクリューズ県アヴィニョン (Avignon) で死去した88歳没)。 «出典» Jean Mabire « Mourir à Berlin » (réédition : Grancher, 1995) p194 Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p29, 99, 104, 106, 163, 307, 319, 391, 395, 434, 437, 439, 508. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : Lucien HENNECART" ^ マクシム・ド・ラカーズ武装連隊上級士官候補生 (W-StdObJu. Maxime de Lacaze):フランスSS突撃大隊第1中隊第2小隊長 → 第1中隊長代行1924年8月14日フランス共和国南西部生まれ偽名は「ド・カステル」(de Castel)。 1943年1944年 フランス民兵団 ヴィシー政権民兵組織フランス民兵団」(Milice Française) が創設され当初から参加していた古参民兵団員1人マクシム父親アンリ・ボテ・ド・ラカーズ (Henri Bottet de Lacaze) は後に北フランスドイツ軍占領地域)におけるフランス民兵団幹部 (inspecteur général de la Milice en zone nord) の1人となり、ジャン・バソンピエール (Jean Bassompierre) の副官務めた1943年初旬、マクシム・ド・ラカーズはイゼール県ユリアージュ (Uriage) にある民兵団員訓練学校 (L’école des cadres de la Milice à Uriage) に兄弟(兄か弟かは不明)ジャン・ド・ラカーズ (Jean de Lacaze) と共に入学し教官ポール・ピニャール=ベルテ (Paul Pignard-Berthet) の下で訓練励んだ。なお、時期不明であるがマクシム東部戦線従軍中のドイツ陸軍反共フランス義勇軍団 (LVF) に所属したこともあった。 1944年夏、連合軍によってフランスナチス・ドイツ占領下から解放されつつあった時期、ド・ラカーズは兄弟と共にドイツ国避難民兵幹部である父親安否不明)。数ヵ月後の1944年11月フランス民兵団出身フランス人義勇兵として兄弟と共に武装親衛隊入隊した1944年11月1945年4月 訓練期間 SS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ配属後、マクシム・ド・ラカーズは1945年1月からベーメンキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育を受け、おそらく1945年3月付でSS所属武装連隊上級士官候補生 (Waffen-Standarten-OberJunker der SS) となった1945年2月下旬3月中旬ポメラニア戦線には不参加)。 ポメラニア戦線大損害を被ったシャルルマーニュ師団ドイツ北部町村カルピン再編成中の1945年4月14日、ド・ラカーズは将校教育課程修了した他のフランス人士官候補生20名以上と共に師団復帰しアンリ・フネSS義勇大尉第57SS大隊 (SS-Bataillon 57) に配属その後、「シャルルマーニュ師団生存者の中で戦闘継続希望した300名の将兵1人となり、ベルリン行き志願した※。※ベルリン行き志願したちなみにマクシム兄弟ジャン・ド・ラカーズ武装連隊上級士官候補生「シャルルマーニュ」旅団/師団では第57SS所属武装擲弾兵連隊II大隊第5中隊所属)もフランスSS突撃大隊一員としてベルリンへ出発した1945年4月フランスSS突撃大隊ベルリン市街戦1945年4月24日当時20歳のマクシム・ド・ラカーズ武装連隊上級士官候補生フランスSS突撃大隊第1中隊第2小隊長としてベルリン市街戦参加した4月26日夕方〜夜、ド・ラカーズの所属する第1中隊はテンペルホーフ区でソビエト赤軍交戦第2小隊長ド・ラカーズは戦闘中負傷して一時的に戦線離脱するも、4月27日にド・ラカーズ小隊ベル=アリアンス広場(Belle-Alliance-Platz、現メーリング広場 (Mehringplatz))のバリケード1つ防衛担当4月27日午後、ド・ラカーズは第1中隊長ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉ベルリン地下鉄トンネル内へ向かったきり連絡途絶えた後に第1中隊指揮引き継ぎ同日夜に第1中隊生存者引き連れて大隊本部まで帰還した4月28日、第1中隊長代行ド・ラカーズは第3中隊ピエール・ロスタン武装上級曹長 (W-Hscha. Pierre Rostaing) および戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉 (SS-Ostuf. Wilhelm Weber) と連携しヴィルヘルム通り出現した赤軍部隊撃退した同日夕方戦闘中にド・ラカーズは赤軍狙撃兵撃たれ重傷負いベルリン市内の野戦病院1つ搬送されたが、そこで病院制圧した赤軍捕虜となった。 しかし、ド・ラカーズは負傷弱っていたにもかかわらず同日夜に赤軍占領下病院から脱走し、モアビット区 (Moabit) の遺棄されアパート一室で夜を過ごした翌朝4月29日朝)、その建物の上階と下階に赤軍兵がいることに気付いたため、再び夜になってから移動開始。ところが、慎重に建物階段下りたド・ラカーズが地上立った直後途中で彼のポケットから落ちていた手榴弾階段転がり落ち爆発したこの手榴弾破片によってド・ラカーズは新たに重傷負い建物内赤軍兵が騒ぎ反応して近寄ってきた。ド・ラカーズは血液型の刺青を左腋の下施している武装親衛隊フランス人義勇兵であったが、赤軍兵は何も質問せずにこの重傷者を急いで近く病院まで連れて行ったその後もド・ラカーズの正体誰も確かめようとせず、彼はドイツ徴用された外国人労働者であると見なされていた)。 戦後 ベルリン市街戦重傷負いつつも第二次世界大戦生き延びたマクシム・ド・ラカーズ※は、身柄フランスへ送還されてからはオー=ド=セーヌ県シュレンヌ (Suresnes) のフォッシュ病院 (Hôpital Foch) で5ヶ月過ごした。※大戦生き延びたマクシム・ド・ラカーズ…マクシム兄弟ジャン(共にベルリン市街戦参加)の生死不明その後、まだ体内に手榴弾破片いくつか残っている状態のまま病院から離れアルプ=マリティーム県ニース (Nice) まで辿り着いたド・ラカーズは、元レジスタンスメンバーありながらフランス解放時に何名かの「敗北者」(対独協力者)をフランス国外へ脱出させる手助けをした女性マダム・S」(Mme de S.) と対面した。彼女に自身経歴話した後、ド・ラカーズは彼女のモーターボートによってイタリア運ばれた(イタリア到着後は1人イエズス会修道士によって保護された)。 ド・ラカーズがイタリアへ去った後の1945年12月20日フランス南西部ロット=エ=ガロンヌ県アジャン (Agen) で欠席裁判が行われ、ド・ラカーズに死刑判決下った1946年、マクシム・ド・ラカーズはイタリアから南アメリカへ渡航し2005年死去するまでアルゼンチン共和国首都ブエノスアイレス暮らした81歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p394, 434-435, 437, 439, 440, 504. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) :"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Maxime De LACAZE" "Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Jean De LACAZE" Grégory Bouysse « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine » (Lulu, 2012) : "Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-Milice Française : Maxime De LACAZE" ^ ジョルジュ・クーテュラン (Georges Couturin):フランスSS突撃大隊本部通信生年月日生誕地不明戦前フランス共和国首都パリ消防士であったが、(おそらく1943年7月下旬1944年夏までの間に)フランス人義勇兵として武装親衛隊志願入隊し、第8フランスSS義勇突撃旅団所属1944年8月ガリツィア戦い参加したかどうか不明)。その後、第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊所属した。 ジョルジュ・クーテュラン(階級不明)は「シャルルマーニュ師団生存者の中で戦闘継続希望した300名の将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊本部一員通信手)としてベルリン市街戦参加4月29日戦闘では赤軍兵に侵入され建物から脱出する際に火を放って赤軍兵の足止め味方後退時間稼ぎ)をした。また、5月1日午後の戦闘赤軍からの火炎放射攻撃フランスSS突撃大隊陣取る建物浴びせられた際には、陣頭立って消火活動臨んだ(しかし、この消火活動消火用の無かったため失敗した)。 第二次世界大戦におけるジョルジュ・クーテュランの最終的な生死不明※であるが、戦後1947年12月24日フランス共和国パリ軍事裁判所 (le tribunal militaire de Paris) は欠席裁判でクーテュランに死刑判決下した。 ※クーテュランの最終的な生死不明…Mabire(1995) p270(およびForbes(2006) p463)によると、ジョルジュ・クーテュランは大隊長フネグループ一員として1945年5月2日午後3時頃にポツダム広場ベルリン地下鉄駅構内赤軍捕虜になったという(その後消息不明)。これらの記述とは対照的にBouysse(2011)は、クーテュランは「おそらくベルリン戦で死亡した」と推測している。 «出典» Jean Mabire « Mourir à Berlin » (réédition : Grancher,1995) p210, 270. Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p443, 463. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue) : Sturmbrigade : Georges COUTURIN" ^ アルフレド・ドゥールー武装連隊上級士官候補生 (W-StdObJu. Alfred Douroux):フランスSS突撃大隊本部第2補佐1920年生まれ生誕地不明)。偽名は「ドゥーロー」(Douraux)。 (第二次世界大戦当初フランス陸軍軍人であったが)1943年初旬ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)へ志願入隊し、後に第II大隊第6中隊所属したフランス人義勇兵1944年9月1日再編成伴って武装親衛隊移籍した。 ※フランス陸軍軍人いくつかの文献公表されているポートレイト写真で、アルフレド・ドゥールーは第二次世界大戦期フランス陸軍制服着用している。 1945年1月からはベーメンキーンシュラークSS装甲擲弾兵学校将校教育を受け、3月付でSS所属武装連隊上級士官候補生 (Waffen-Standarten-OberJunker der SS) となった1945年4月14日ドイツ北部町村カルピン再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)に復帰し第57SS大隊アンリ・フネSS義勇大尉の第2補佐務めた1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊本部第2補佐 (2ème Officier d'ordonnance) として参加4月26日ノイケルンの戦いにおける活躍が「ノルトラント師団戦車将校認められ、その将校一級鉄十字章授与された(この受章非公式なものであったため、4月29日付で改め一級鉄十字章を公式に受章した)。その後もドゥールーは大隊長フネ左足負傷)をサポートしつつ戦闘継続し5月2日赤軍の手落ちたベルリン市街からの脱出作戦中にミッテ区ポツダム広場ベルリン地下鉄駅構内赤軍部隊発見されフネ(と他の戦友数名と共に赤軍捕虜となった。 アルフレド・ドゥールーは第二次世界大戦生き延び1998年死去した78歳没)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Alfred DOUROUX" ^ ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉 (SS-Ostuf. Hans-Joachim von Wallenrodt):フランスSS突撃大隊副官1914年8月27日ドイツ国帝政ドイツプロイセン王国ハノーファー (Hannover) 生まれ第二次世界大戦独ソ戦末期に「シャルルマーニュ師団連隊フランスSS部隊査察部情報参謀 (Ic) を務めていたドイツ人SS中尉正確な時期不明であるが、かつては宣伝中隊戦時報道員(従軍記者であった1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊大隊長アンリ・フネSS義勇大尉)の副官として参加し市街戦中に戦車破壊駆逐)班1個、またはフネ不在の間のフランスSS突撃大隊指揮執るなどして活躍1945年4月29日付で一級鉄十字章受章したフネいわく、フォン・ヴァレンロートは「非常に落ち着いた状態のまま、この(ベルリン市街戦の)騒音の中で気楽にしていた」)。 ベルリン守備隊ソビエト赤軍降伏した1945年5月2日、フォン・ヴァレンロートは大隊長アンリ・フネグループ一員としてベルリン脱出およびドイツ第12軍との合流試みて移動していたが、同日午後3時頃にフネグループ全員と共にミッテ区ポツダム広場地下鉄駅構内赤軍部隊発見され捕虜となったその後ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉生きて帰ってくることは無かった(フォン・ヴァレンロートの遺族は、彼はソビエト連邦領内収容所死亡した※と推測している)。 ※収容所死亡した…Mabireの著書記述。ただし、Grégory Bouysseの著書記述によると、ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉1945年5月2日ベルリン死亡したという(満30歳没)。 «出典» Jean Mabire « Mourir à Berlin » (réédition : Grancher,1995) p271 Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » (Helion & Co., 2006) p393, 407, 421, 427-428, 433-434, 437, 450, 463. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » (Lulu, 2011) : "Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » : Hans-Joachim von WALLENRODT" ^ ロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長 (SS-Frw. Uscha. Roger Albert-Brunet):捕虜となった後、赤軍兵に射殺されフランスSS突撃大隊本部下士官フランス共和国ドーフィネ (Dauphiné) 出身生年月日不明)。 1943年初頭フランス民兵団参加しイゼール県ユリアージュ (Uriage) にある民兵団員訓練学校 (L’école des cadres de la Milice à Uriage) に在籍した後、1943年秋に武装親衛隊志願入隊したフランス人義勇兵1944年8月ガリツィア戦い1945年2月下旬3月中旬ポメラニア戦線経験した※。※ガリツィア戦、ポメラニア戦を経験…ただし、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊や第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」におけるロジェ・アルベール=ブリュネ所属部隊不明1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊本部一員として参加しソビエト赤軍戦車撃破数を戦友ウジェーヌ・ヴォロ (Eugène Vaulot) と競い合った4月29日アルベールブリュネ市街戦中にパンツァーファウスト用いて赤軍戦車合計4輌撃破した功績によって一級鉄十字章受章した(なお、ウジェーヌ・ヴォロ合計8輌撃破した功績により、4月29日付で騎士鉄十字章受章した)。 1945年5月2日午後3時過ぎ、ロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長大隊長アンリ・フネSS義勇大尉と共にミッテ区ポツダム広場地下鉄駅構内赤軍捕虜となったが、その後移送中、アルベールブリュネ制服の腕に着いている戦車撃破章 (Panzervernichtungsabzeichen) を見た赤軍兵によって射殺された。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » (Lulu, 2011) : "Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : Roger ALBERT-BRUNET"

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脚注・人物

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ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)」の記事における「脚注・人物」の解説

^ ジャック・パスケ武装連隊上級士官候補生(W-StdObJu. Jacques Pasquet):ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉副官 1914年フランス共和国アンドル県サン=ゴルティエSaint-Gaultier生まれアリエ県ムーラン生まれとする説もある)。偽名は「パスコ」(Pasquot)。戦前フランスにおけるスポーツ選手モデルであり、1937年パリ開催されコンクール「ミスター・フランス」と「ミスター・ヨーロッパ」で優勝した経験を持つ。 第二次世界大戦勃発後、(時期不明であるが)フランス民兵団Milice Française)の一員となり、1944年11月ナチス・ドイツ武装親衛隊入隊編入)。SS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」(後に師団)のエリート歩兵部隊「名誉中隊」に配属され中隊長ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉副官となった。 パスケは第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」名誉中隊副官として1945年2月下旬3月ポメラニア戦線従軍したが、(おそらくポメラニア戦線撤退時にソビエト赤軍捕虜となり、モスクワから約150キロメートル西に位置するキシロフカ(Kissilowka / Kissilovka)収容所抑留された。 ジャック・パスケは大戦生き延びフランス帰国後パリでボディビルクラブを開業したその後消息不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Aspirants : Jacques PASQUET" Male Physique Vintage - Galerie de photos - de ma collection personnelle - /(大会中のジャック・パスケを撮影した写真) ^ ピエール・スリエ武装伍長(W-Uscha. Pierre Soulier):エルゼナウの戦いで活躍し中隊長ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉一級鉄十字章授与された名誉中隊隊員 1921年もしくは1922年)、フランス共和国アルザス地域圏Alsace生まれ1943年ナチス・ドイツトート機関Organisation Todt労働者警備隊「シュッツコマンド」(Schutzkommando (SK))に参加し東部戦線ロシア)で数ヶ月勤務1944年初旬フランス人義勇兵としてドイツ海軍Kriegsmarine)へ志願入隊した同じくフランス人義勇兵ウジェーヌ・ヴォロEugène Vaulot)やロベール・スーラ(Robert Soulat)は、ドイツ海軍時代知り合った戦友)。 1944年9月16日再編成伴ってドイツ海軍から武装親衛隊移籍しSS所属武装伍長(Waffen-Unterscharführer der SS任官SS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ配属後、当初は第58SS所属武装擲弾兵連隊第9中隊小隊長務めていたが、後に選抜されヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉の「名誉中隊」(後の戦術学校)の一員となった1945年2月25日ポメラニア戦線・エルゼナウの戦いで対戦車地雷パンツァーファウスト駆使して赤軍戦車3輌(4輌)※を撃破した功績により、中隊長ヴェーバーSS中尉一級鉄十字章授与された。また、第2小隊ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長スターリン重戦車IS-2)を撃破する前には、ヴォロや他のフランス兵連携してスターリン重戦車包囲一翼担っていた。 ※スリエ一級鉄十字章ヴェーバーから授与され時の戦車撃破数として、Robert Forbesは「3輌」と記しているがGrégory Bouysseは「4輌」と記している。 しかしその後、ピエール・スリエは5輌目の敵戦車攻撃していた時に戦死した戦死時の状況詳細不明)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006)pp.287-288. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Sous-officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : Pierre SOULIER" ^ エミール・ジラール武装伍長(W-Uscha. Émile Girard):敵前逃亡の罪で銃殺刑処され戦術学校隊員 1920年9月14日フランス共和国アルプ=マリティーム県ル・カネLe Cannet生まれ偽名は「エミール・ジェラール」(Emile Gérard)。当初民間製パン業であったが後にフランス民兵団ニース支部一員となり、民兵戦闘部隊フランギャルド」(Franc-Garde de Nice)に所属1944年11月民兵出身フランス人義勇兵としてナチス・ドイツ武装親衛隊入隊しSS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」名誉中隊配属された。 1945年4月ドイツ北部地域における対戦車障害物建設工事小隊長命令拒否した後、2月下旬ポメラニア戦線・エルゼナウの戦いで持ち場から逃げ出した敵前逃亡した)ことを軍法会議問責され死刑確定1945年4月19日から20日にかけての夜、カルピン(Carpin)墓地においてフランソワ・アポロ武装曹長(W-Oscha. François Appolot)が指揮執る銃殺隊によって銃殺刑処された(満24歳没)。なお、エミール・ジラールは「シャルルマーニュ師団戦術学校銃殺隊によって処刑されたが、戦後1945年7月10日フランスアルプ=マリティーム県グラースGrasse)で行われた欠席裁判でジラールには死刑判決下った。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"ANNEXES Ⅰ: Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Milice Française : Émile GIRARD" ^ ジャン・エメ=ブランSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jean Aimé-Blanc):戦術学校第2小隊1920年12月19日生まれ生誕地不明また、生年を「1911年」とする記述誤り)。偽名は「アルムブラン」(Armeblanc)。当初フランス空軍軍曹であったが、1944年初旬ナチス・ドイツ武装親衛隊志願入隊したフランス人義勇兵アルザスのゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)において戦闘教官1人となった。 後に第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」の一員として1945年2月下旬3月ポメラニア戦線従軍3月初旬から中旬にかけて師団本隊はぐれた将兵一部参加したコールベルクKolberg、現コウォブジェク(Kołobrzeg))の戦い生き延びポメラニア戦線撤退後にドイツ北部カルピン再編成中の「シャルルマーニュ師団連隊)に合流ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉戦術学校配属された。 ジャン・エメ=ブランSS義勇伍長は「シャルルマーニュ師団連隊)の生存者の中で戦闘継続希望した将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊戦術学校第2小隊長としてベルリン市街戦参加最終的に大戦生き延びた戦後の消息不明)。 なお、1960年代以降フランスカナダで「社会の敵No.1」と呼ばれた犯罪者ジャック・メスリーヌJacques Mesrine)を長年追い続けたフランスの警察官リュシアン・エメ=ブランLucien Aimé-Blanc1935年生まれ)はジャン・エメ=ブラン親族1人である。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Jean AIMÉ-BLANC" ^ ジェラール・フォントネーSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Gérard Fontenay):戦術学校第3小隊1920年7月19日フランス領西アフリカ・セネガルの首都ダカールDakar生まれ。 (正確な時期不明であるが)ナチス・ドイツ武装親衛隊フランス人義勇兵として入隊し、ゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)で基礎訓練終えた後、ポーランド西部ポーゼン=トレスコウSS下士官学校(SS-Unterführerschule Posen-Treskau)に入学。後に第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」名誉中隊一員としてポメラニア戦線従軍し2月25日のエルゼナウの戦いで4輌の赤軍戦車撃破した。 ジェラール・フォントネーSS義勇伍長※は「シャルルマーニュ師団連隊)の生存者の中で戦闘継続希望した将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊戦術学校第3小隊長としてベルリン市街戦参加最終的に大戦生き延びた戦後の消息不明)。 ※第二次世界大戦期フランスジャーナリスト対独協力者で、1945年4月28日ベルリン市街戦戦闘巻き込まれ死亡したジャン・フォントノア(Jean Fontenoy)とは別人(ジャン・フォントノアは独ソ戦の間にドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)の宣伝部隊に所属していたこともあったが、武装親衛隊には所属していない)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Gérard FONTENAY" ^ ジュール・ブーコーSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jules Boucaud):ベルリン市街戦赤軍戦車4輌を撃破した戦術学校隊員 生年月日生誕地不明フランス人義勇兵偽名は「ボコ」(Bocau)。第8フランスSS義勇突撃旅団出身で、「シャルルマーニュ師団戦術学校一員1945年4月末のベルリン市街戦中に4輌の赤軍戦車撃破し4月29日付で一級鉄十字章受章したその後消息不明)。 «出典» Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Jules BOUCAUD" ^ ジャック・エヴラルSS義勇兵長(SS-Frw. Rttf. Jacques Evrard):1945年5月2日ベルリン脱出時、ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉同行していたフランス人義勇兵 1924年5月フランス共和国ロワレ県モンタルジMontargis)の医者外科医)の息子として誕生偽名は「エヴラン」(Evrand)。 当初フランス人民党PPF)の一員であったが、1944年6月(注:連合軍フランスノルマンディー海岸上陸した後)にナチス・ドイツ武装親衛隊入隊。ゼンハイム親衛隊訓練施設(SS-Ausbildungslager Sennheim)で基礎訓練受けた後、フランスSS擲弾兵訓練補充大隊(Franz. SS-Grenadier Ausbildungs-und Ersatz Bataillon)に配属された。 第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」では第57SS所属武装擲弾兵連隊衛生兵として1945年2月下旬3月ポメラニア戦線従軍ポメラニア戦線から生還した後、エヴラルは「シャルルマーニュ師団生存者の中で戦闘継続希望した将兵1人となり、1945年4月24日フランスSS突撃大隊第3中隊ピエール・ロスタン武装上級曹長)の主計としてベルリン市街戦参加した1945年5月1日から2日にかけての夜、戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉付き従ってベルリン脱出開始。ある地点ヴェーバーグループ包囲突破敢行した際にエヴラルは道路横切って1軒の家に駆け込み廊下の奥のドア開けたが、その部屋中には椅子腰掛けてくつろぐ1人赤軍兵がいた。フランス人義勇兵赤軍兵の双方驚愕する中、慌てた赤軍兵が銃を撃つよりも早くエヴラルは家の外の道路飛び出していた。その後、エヴラルは別の建物中に身を潜め夜明け待った5月2日午後未だにベルリン市街で抵抗続けドイツ人SS兵士フランス人義勇兵一部篭る建物前に1輌の赤軍戦車現れ建物主砲向けた。しかし、赤軍戦車兵はこの日の午前中にベルリン防衛司令官ヘルムート・ヴァイトリング赤軍第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフ将軍降伏申し入れ市内ドイツ軍部隊戦闘停止するよう命じられていることを知っていたため、発砲控えて降伏呼びかけた。 降伏勧告受けた建物内では、地下室避難していた民間人たちが上階に姿を現しSS兵士たち取り囲んでいた。戦いをやめるよう懇願するベルリン市民に囲まれ戦闘継続無意味であると悟ったSS兵士たちはついに武器置いた。この時、エヴラルは民間人の服に着替えて身の安全を図るという考え思いついたがすぐに思い直しここまで生き残ってきた武装親衛隊戦友たちと最後まで行動共にすることを選んだ。そして全ての武器弾薬処分した後、ドイツ人SS兵士およびフランス人義勇兵一部から成るグループ建物の外に出て赤軍投降した。 ジャック・エヴラルは大戦生き延び1949年からはパリ市内の病院通勤助手として勤務1953年インターン医学実習生)となり、整形外科外傷外科の道へ進んだ。後にパリのコシャン病院(Hôpital Cochin)の外科医となり、骨・関節感染症治療のスペシャリストとして知られた(感染症に関する書籍晩年までに約130著した)。 1994年12月20日、ジャック・エヴラルは死去した(満70歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006)pp.459-460. Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Soldats & Caporaux : Jacques EVRARD"

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脚注・人物

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ヴァルター・ツィンマーマン (親衛隊隊員)」の記事における「脚注・人物」の解説

^ モーリッツ・ツィンマーマン(Moritz Zimmermann):ヴァルター・ツィンマーマン父親 普仏戦争1870年1871年)に従軍した経験を持つ人物マイセン郵便局長務め、後の第一次世界大戦にも最初2年間(1914年1916年従軍した。 «出典» Marc C. Yerger « Waffen-SS Commanders: The Army, Corps and Divisional Leaders of a Legend: Krüger to Zimmermann »(Schiffer Publishing, 1999)p352 ^ フェルディナント・ティーツ(Ferdinand Tietz):SS特務師団工兵大隊初代大隊長 当初親衛隊特務部隊工兵大隊技術将校務めていたが、1935年11月ヴァルター・ツィンマーマン技術将校の職を交替した(ただし、その後親衛隊特務部隊工兵大隊所属し大隊副官中隊指揮官務めた)。 第二次世界大戦勃発後に親衛隊最初師団SS特務師団)が創設されると、同師団工兵大隊初代大隊長就任1942年4月まで同職務めた後は工兵訓練補充部隊指揮官として過ごし終戦時は在オランダ武装親衛隊司令部工兵先任将校であった最終階級SS大佐(SS-Standartenführer)であり、大戦中に二級鉄十字章一級鉄十字章受章した1982年10月25日死去。 «出典» Marc C. Yerger « Waffen-SS Commanders: The Army, Corps and Divisional Leaders of a Legend: Krüger to Zimmermann »(Schiffer Publishing, 1999)p352 ^ ヴァレンティン・パツァークSS少尉(SS-Ustuf. Valentin Patzak):グスタフ・クルケンベルクSS少将当直将校 1912年1月9日ドイツ国帝政ドイツフュルステンベルクFürstenberg生まれ親衛隊将校SS隊員番号290 189)。 第二次世界大戦独ソ戦後期は第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」のドイツ人部署フランスSS部隊査察部)に所属しフランスSS部隊総監グスタフ・クルケンベルクSS少将の第1当直将校として勤務1945年2月下旬3月ポメラニア戦線ではヴァルター・ツィンマーマンSS大佐随伴し戦場東奔西走した)。 1945年4月末のベルリン市街戦にもクルケンベルクSS少将(「ノルトラント師団長就任)の側近(第2当直)として参加し、クルケンベルクと行動を共にした。 1945年5月1日から5月2日にかけての夜、ヴァレンティン・パツァークSS少尉はクルケンベルクSS少将主導するベルリン市脱出計画航空省周辺残存部隊へ伝えるために、ベルリン地下鉄市中央駅(U-Bahnhof Stadtmitte:「ノルトラント師団司令部)から地上出て航空省方面向かったが、その道中で行方不明となった。※ ※Grégory Bouysseの著書では、ヴァレンティン・パツァークSS少尉1945年5月2日ベルリン死亡したとされている(満33歳没)。 «出典» Robert Forbes « FOR EUROPE: The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Company, 2006)p458 Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1: officiers »(lulu, 2011)、"Annexe I: Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » Valentin PATZAK"

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