ポメラニア戦線撤退
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「ウジェーヌ・ヴォロ」の記事における「ポメラニア戦線撤退」の解説
しかし、名誉中隊の奮戦も甲斐なく、「シャルルマーニュ」師団は1945年2月25日午後遅くにハマーシュタイン、翌26日にノイシュテッティン(Neustettin、現シュチェチネク(Szczecinek))まで後退した。 ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長が所属する名誉中隊はエルゼナウの戦いで損害を被ったため、師団本隊に先んじてポメラニア戦線から引き揚げられた。エルゼナウの戦いの後、中隊はバルト海沿岸部の都市コールベルク(Kolberg、現コウォブジェク(Kołobrzeg))に到達し、その後は鉄道でグライフェンベルク(Greifenberg、現グリフィツェ(Gryfice))に移動、3月8日にドイツ北部の都市アンクラム(Anklam)へ到着した。
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ポメラニア戦線撤退
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「ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)」の記事における「ポメラニア戦線撤退」の解説
エルゼナウの戦いの後、フレーテンシュタイン村に集まったヴェーバーと名誉中隊の将兵は若干の休息と食事を済ませ、バルト海沿岸部の都市コールベルク(Kolberg、現コウォブジェク(Kołobrzeg))への移動に備えた。グスタフ・クルケンベルクSS少将の命令に従い、彼らはコールベルクからグライフェンベルク(Greifenberg、現グリフィツェ(Gryfice))へ向かう予定であった。 翌朝、行軍を開始した名誉中隊はある村を通過したが、そこで彼らはあらゆる方角からこちらに向かってくる難民の集団と遭遇した。そして、「ロシア人が来る」と何度も繰り返し警告する難民が通過した数分後、赤軍のT-34部隊が出現した。しかし、この敵戦車部隊はドイツ陸軍の突撃砲2輌が相手したため、名誉中隊はバルト海沿岸部への行軍を続けた。 その後も名誉中隊が進む道路は難民と彼らの荷物で溢れかえっていたが、この時、新たに出現した赤軍戦車が進路上のあらゆるものをキャタピラで轢き潰しながら名誉中隊に接近した。ヴェーバーは名誉中隊の生存者に対して道路沿いの原野を進むよう命じた。凍りついた湖沼が点在する原野(湿地)まで追ってくることはないというヴェーバーの計算通り、敵戦車は道路から約100メートル離れた原野を移動する名誉中隊を追撃せず、わずかに機銃掃射を浴びせただけであった。しかし、戦車に随伴する赤軍兵は自分たちを追撃することが可能なため、ヴェーバーは前日の戦闘で疲れきっている上に冬の湿地を走らされて凍えている名誉中隊の生存者を急かした。 「前進! ぐずぐずするな! 進め、進め!」(Vorwärts! Schnell! Marsch, marsch!) その後、名誉中隊はフレーテンシュタインから約15キロメートルの位置にある村に到着した。この村の鉄道駅で名誉中隊はコールベルク行きの列車に乗り込むことができ、同様に列車に乗り込んだ「シャルルマーニュ」師団の生存者の一部(約100名)と共に、その日の夜にコールベルクに到着した。翌日、グライフェンベルクへ向かう列車に乗り込んだヴェーバーの名誉中隊は「親衛隊は敵地を進む」(悪魔の歌)を歌いながら戦場を後にした。 「 Wo wir sind, da ist immer vorneUnd der Teufel der lacht noch dazu:Ha, Ha, Ha, Ha, Ha, Ha, Ha!Wir Kämpfen für Freiheit,Wir Kämpfen für Hitler...(Où nous sommes, c'est toujours en avant.Et c'est là que le diable rit encoreHa! Ha! Ha! Ha! Ha! Ha! Ha!Nous combattons pour la liberté,Nous combattons pour Hitler...) 」
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