フランス人以外の将兵
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「フランスSS突撃大隊」の記事における「フランス人以外の将兵」の解説
ベルリン市街戦に参加した武装親衛隊フランス人義勇兵部隊として知られるフランスSS突撃大隊であるが、大隊には少数ながら何名かのフランス以外の外国籍の隊員が所属していた。 ドイツ人 ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(SS-Ostuf. Wilhelm Weber):戦術学校指揮官 1918年3月19日、ドイツ国(帝政ドイツ)プロイセン王国ヴェストファーレン・ピヴィッツハイデ(Pivitsheide)生まれ。 1937年に親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)へ志願入隊し、1939年9月のポーランド侵攻、1940年5月~6月の西方戦役、1941年6月のソビエト連邦侵攻作戦「バルバロッサ」、その後の東部戦線で活躍した実績を持つベテランのドイツ人将校。1944年秋、グスタフ・クルケンベルクSS少将に抜擢されて第5SS装甲師団「ヴィーキング」第9SS装甲擲弾兵連隊「ゲルマニア」からSS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」へ転属した。 1945年2月末のポメラニア戦線では「シャルルマーニュ」師団司令部直属エリート歩兵中隊「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)を指揮して奮戦し、パンツァーファウストを用いた近接戦闘で赤軍戦車を多数撃破。1945年4月末のベルリン市街戦では「戦術学校」(Kampfschule)指揮官として単独で敵戦車8輌(もしくは13輌)を撃破し、1945年4月29日付でベルリン「Z」地区(官庁街)防衛司令官ヴィルヘルム・モーンケSS少将から騎士鉄十字章※を授与された。 ※ ただし、独ソ戦末期の混乱状態が原因でヴェーバーの騎士鉄十字章公式勲記(受章証書)はドイツ連邦公文書館に保存されていない。 ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(「シャルルマーニュ」師団に勤務したドイツ人将兵の中で唯一の騎士鉄十字章受章者)はベルリン市街戦を生き延びて終戦を迎え、1980年3月2日に西ドイツのヘッセン州ベンスハイム(Bensheim)で死去した。 ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉(SS-Ostuf. Hans-Joachim von Wallenrodt):フランスSS突撃大隊副官 1914年8月27日、ドイツ国(帝政ドイツ)プロイセン王国ハノーファー(Hannover)生まれ。ポメラニア戦線敗退後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)フランスSS部隊査察部の情報参謀(Ic)を務めていたドイツ人SS中尉。 ベルリン市街戦におけるアンリ・フネSS義勇大尉の副官(市街戦中は戦車破壊班1個、またはフネが不在の間のフランスSS突撃大隊の指揮を執るなどして活躍し、1945年4月29日付で一級鉄十字章を受章した)。 ベルリン守備隊が赤軍に降伏した1945年5月2日、フォン・ヴァレンロートSS中尉は大隊長アンリ・フネのグループの一員としてベルリン脱出およびドイツ第12軍との合流を試みて移動していたが、同日午後3時頃にフネのグループ全員と共にポツダム広場付近のベルリン地下鉄の構内で赤軍部隊に発見され、捕虜となった。 その後、フォン・ヴァレンロートが生きて帰ってくることは無かった(フォン・ヴァレンロートの遺族は、彼はソビエト連邦領内の収容所で死亡した※と推測している)。 ※ Grégory Bouysseの著書では、ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉は1945年5月2日にベルリンで死亡したとされている。 ブロックSS連隊付上級士官候補生(SS-StdObJu. Block):フランスSS突撃大隊のドイツ人士官候補生 生年月日・生誕地不明の武装親衛隊ドイツ人士官候補生。フランスSS突撃大隊の一員としてベルリン市街戦に参加し、4月29日の戦闘で死亡した。 ルドルフ・ローゼンクランツSS曹長(SS-Oscha. Rudolf Rosenkranz):フランスSS突撃大隊のドイツ人曹長 ドレスデン(Dresden)出身(生年月日は不明)。独ソ戦の当初はドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)本部のドイツ人連絡員として勤務していた国防軍兵士であり、1944年9月1日、再編成に伴って反共フランス義勇軍団のフランス人将兵と共に武装親衛隊へ移籍。正確な日付は不明であるがSS曹長(SS-Oberscharführer)に任官した。 「シャルルマーニュ」旅団/師団配属後もドイツ人将兵の1人として勤務を続け、1945年4月末のベルリン市街戦にフランスSS突撃大隊の一員として参加した。その後の消息は不明。 フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink):フランスSS突撃大隊本部ドイツ人書記官 アルザス出身(生年月日は不明)のドイツ人SS伍長。偽名は「フィンクラー」(Finkler)。ポメラニア戦線撤退後、カルピン(Carpin)で再編成中の「シャルルマーニュ」師団司令部(1945年3月中旬~4月)で書記官を務めていた。 1945年4月末のベルリン市街戦にフランスSS突撃大隊本部書記官として参加。しかし、フィンクはその事務的な役割よりも武器をとって戦闘に参加することを望んでおり、1945年4月26日のノイケルンの戦いの際には近くにいたヒトラーユーゲントの少年を捕まえて自身の職務(前線より比較的安全な大隊本部書記の仕事)を押し付け、フィンク本人は最前線で同僚クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard)と連携して赤軍部隊の進撃を阻止した。 ベルリン守備隊が赤軍に降伏した1945年5月2日、フィンクは大隊長アンリ・フネSS義勇大尉のグループの一員としてベルリン脱出およびドイツ第12軍との合流を試みて移動していたが、ポツダム広場付近のベルリン地下鉄の構内で赤軍部隊に発見され、フネのグループの潜伏地点から約10メートル離れた場所で赤軍兵に捕縛された。潜伏中のフネのグループが赤軍兵に発見される前に、フィンクは先に捕まった他の捕虜たちと共に地上へ連行されていった(その後の消息は不明)。 マックス・ヴァルターSS伍長(SS-Uscha. Max Walter):フランスSS突撃大隊本部の通訳 生年月日・生誕地不明。フランスSS突撃大隊本部でドイツ語とフランス語の通訳を務めていたドイツ人SS伍長。1945年4月末のベルリン市街戦中は大隊長アンリ・フネSS義勇大尉や「ノルトラント」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将に随伴。市街戦で重傷を負い、戦後の1945年9月15日にベルリン市内のハレ(Halle)病院で死亡した。 ルクセンブルク人 クラインSS曹長(SS-Oscha. Klein):戦術学校先任曹長 ルクセンブルク国籍を持つSS曹長。「シャルルマーニュ」旅団訓練期間中にヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉に選ばれて「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)の中隊先任曹長(Spieß)に就任し、1945年4月末のベルリン市街戦にも「戦術学校」(旧称:名誉中隊)の先任曹長として参加した。その後の消息は不明。 フラマン人(ベルギー王国フランデレン地域出身者) ローラント・フェルファイリー武装曹長(W-Oscha. Roland Verfaillie):第3中隊第2小隊長補佐 1922年7月18日、ベルギー王国フランデレン地域イーペル(Ieper / Ypres)生まれ。偽名は「ファンデルファイレ」(Vanderfaille)。独ソ戦でドイツ国防軍や武装親衛隊に所属した外国人義勇兵の中で、1941年末のモスクワの戦いと1945年4月末のベルリンの戦いの両方に参加した経験を持つ非常に珍しい人物(おそらくフラマン人義勇兵としては唯一の事例)。 1941年、フランス国籍の取得を目的としてドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)に志願。フェルファイリーは当時のフランスのいくつかの親独的ファシズム政党のいずれにも所属していなかったものの、高い知力と屈強な体格(身長182cm)の持ち主であることから入隊審査を難なく通過(第245番目の義勇兵として入隊)。反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊)第Ⅰ大隊本部通信小隊の一員として1941年末のモスクワの戦いを経験した後、1942年の時点では第Ⅰ大隊第2中隊の一員として白ロシアで対パルチザン戦に従事した。 1944年9月、再編成に伴って武装親衛隊へ移籍。後に第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第58SS所属武装擲弾兵連隊本部の通信小隊に所属した。 1945年4月末のベルリン市街戦ではフランスSS突撃大隊第3中隊第2小隊長ガストン・ボムガルトネ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Gaston Baumgartner)の補佐を務めたが、4月26日のノイケルンの戦いで敵狙撃兵に足首を撃ち抜かれて負傷した。 戦後、ローラント・フェルファイリーはベルリン市街戦で生き残っていた少数のフランス人義勇兵たちと同様にフランスへ身柄を送還され、裁判にかけられた。その後の消息は不明。 クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard):フランスSS突撃大隊本部書記官 1927年生まれのフラマン人(生誕地は不明。ベルリン市街戦当時の年齢は18歳)。偽名は「カパン」(Capand)、「カプ」(Cap)、「カパール」(Cappard)、「カパー」(Kapar)。体格は小柄。 ベルリン市街戦でフランスSS突撃大隊本部書記官を務めていたが、その事務的な役割よりも武器をとって戦闘に参加する方を好み、4月26日のノイケルンの戦いではMG42機関銃手の1人として活躍。赤軍がフランスSS突撃大隊の火点(機関銃陣地)を潰そうとする度に素早く位置を変更して応戦し、同僚フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink)と連携して26日午後7時まで赤軍部隊の進撃を防ぎきり、4月27日付で二級鉄十字章を受章した。 1945年5月2日夜、フランスSS突撃大隊第3中隊長ピエール・ロスタン武装上級曹長のグループと共にポツダム広場付近で赤軍の捕虜となった。捕虜を射殺するために赤軍兵が捕虜一同を壁の前に立たせた時、カパルトはそれまでの勇気を失って泣き出したが、酒に酔った赤軍将校が赤軍兵を追い払って処刑を中止させたため土壇場で助かり、生きて終戦を迎えた。その後の消息は不明。 (元)ロシア人 (→ ) セルジュ・プロトポポフ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Serge Protopopoff):フランスSS突撃大隊第4中隊長補佐(後に中隊長代行) (生年月日不明。推定出生年は1920年代前半)フランス共和国の首都パリ生まれのロシア人(両親はロシア革命でフランスに亡命した白系ロシア貴族)で、フランスに帰化。祖父はロシア帝国最後の内務大臣アレクサンドル・プロトポポフ(Александр Протопопов / Alexandre Protopopov)。 フランス民兵団、ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)を経て1944年9月1日付で武装親衛隊へ移籍。1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊長補佐として参加し、中隊長ジャン・オリヴィエSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier)の負傷後は第4中隊長代行として活躍。市街戦中に赤軍戦車を5輌撃破し、赤軍砲兵観測機を1機撃墜した。 1945年5月1日朝、フランスSS突撃大隊第3中隊長ピエール・ロスタン武装上級曹長との会話中に飛来した赤軍の迫撃砲弾によって死亡。市街戦中に敵戦車5輌を撃破していた功績を讃えられ、プロトポポフは戦死後に一級鉄十字章を追贈された。
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