フランス人以外の将兵とは? わかりやすく解説

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フランス人以外の将兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/10 23:02 UTC 版)

フランスSS突撃大隊」の記事における「フランス人以外の将兵」の解説

ベルリン市街戦参加した武装親衛隊フランス人義勇兵部隊として知られるフランスSS突撃大隊であるが、大隊には少数ながら何名かのフランス以外外国籍隊員所属していた。 ドイツ人 ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(SS-Ostuf. Wilhelm Weber):戦術学校指揮官 1918年3月19日ドイツ国帝政ドイツプロイセン王国ヴェストファーレン・ピヴィッツハイデ(Pivitsheide)生まれ1937年親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)へ志願入隊し1939年9月ポーランド侵攻1940年5月6月西方戦役1941年6月ソビエト連邦侵攻作戦バルバロッサ」、その後東部戦線活躍した実績を持つベテランドイツ人将校1944年秋、グスタフ・クルケンベルクSS少将抜擢され第5SS装甲師団「ヴィーキング」第9SS装甲擲弾兵連隊ゲルマニア」からSS所属武装擲弾兵旅団シャルルマーニュ」へ転属した。 1945年2月末のポメラニア戦線では「シャルルマーニュ師団司令部直属エリート歩兵中隊「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)を指揮して奮戦しパンツァーファウスト用いた近接戦闘赤軍戦車多数撃破1945年4月末のベルリン市街戦では「戦術学校」(Kampfschule)指揮官として単独で敵戦車8輌(もしくは13輌)を撃破し1945年4月29日付でベルリン「Z」地区官庁街防衛司令官ヴィルヘルム・モーンケSS少将から騎士鉄十字章※を授与された。 ※ ただし、独ソ戦末期混乱状態が原因ヴェーバー騎士鉄十字章公式勲記受章証書)はドイツ連邦公文書館保存されていないヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(「シャルルマーニュ師団勤務したドイツ人将兵の中で唯一の騎士鉄十字章受章者)はベルリン市街戦生き延びて終戦迎え1980年3月2日西ドイツヘッセン州ベンスハイムBensheim)で死去したハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉(SS-Ostuf. Hans-Joachim von Wallenrodt):フランスSS突撃大隊副官 1914年8月27日ドイツ国帝政ドイツプロイセン王国ハノーファーHannover生まれポメラニア戦線敗退後の「シャルルマーニュ師団連隊フランスSS部隊査察部情報参謀Ic)を務めていたドイツ人SS中尉ベルリン市街戦におけるアンリ・フネSS義勇大尉副官市街戦中は戦車破壊班1個、またはフネ不在の間のフランスSS突撃大隊指揮執るなどして活躍し1945年4月29日付で一級鉄十字章受章した)。 ベルリン守備隊赤軍降伏した1945年5月2日、フォン・ヴァレンロートSS中尉大隊長アンリ・フネグループ一員としてベルリン脱出およびドイツ第12軍との合流試みて移動していたが、同日午後3時頃にフネグループ全員と共にポツダム広場付近ベルリン地下鉄構内赤軍部隊発見され捕虜となったその後、フォン・ヴァレンロートが生きて帰ってくることは無かった(フォン・ヴァレンロートの遺族は、彼はソビエト連邦領内収容所死亡した※と推測している)。 ※ Grégory Bouysseの著書では、ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉1945年5月2日ベルリン死亡したとされている。 ブロックSS連隊上級士官候補生(SS-StdObJu. Block):フランスSS突撃大隊ドイツ人士官候補生 生年月日生誕地不明武装親衛隊ドイツ人士官候補生フランスSS突撃大隊一員としてベルリン市街戦参加し4月29日戦闘死亡した。 ルドルフ・ローゼンクランツSS曹長(SS-Oscha. Rudolf Rosenkranz):フランスSS突撃大隊ドイツ人曹長 ドレスデンDresden出身生年月日不明)。独ソ戦当初ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF:ドイツ陸軍第638歩兵連隊本部ドイツ人連絡員として勤務していた国防軍兵士であり、1944年9月1日再編成伴って反共フランス義勇軍団のフランス人将兵と共に武装親衛隊移籍正確な日付不明であるがSS曹長(SS-Oberscharführer)に任官した「シャルルマーニュ」旅団/師団配属後もドイツ人将兵1人として勤務続け1945年4月末のベルリン市街戦フランスSS突撃大隊一員として参加したその後消息不明フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink):フランスSS突撃大隊本部ドイツ人書記官 アルザス出身生年月日不明)のドイツ人SS伍長偽名は「フィンクラー」(Finkler)。ポメラニア戦線撤退後、カルピン(Carpin)で再編成中の「シャルルマーニュ師団司令部1945年3月中旬4月)で書記官務めていた。 1945年4月末のベルリン市街戦フランスSS突撃大隊本部書記官として参加。しかし、フィンクその事務的な役割よりも武器をとって戦闘参加することを望んでおり、1945年4月26日ノイケルンの戦いの際には近くにいたヒトラーユーゲント少年捕まえて自身職務前線より比較安全な大隊本部書記仕事)を押し付けフィンク本人最前線同僚クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard)と連携して赤軍部隊進撃阻止したベルリン守備隊赤軍降伏した1945年5月2日フィンク大隊長アンリ・フネSS義勇大尉グループ一員としてベルリン脱出およびドイツ第12軍との合流試みて移動していたが、ポツダム広場付近ベルリン地下鉄構内赤軍部隊発見されフネグループ潜伏地点から約10メートル離れた場所で赤軍兵に捕縛された。潜伏中フネグループ赤軍兵に発見される前にフィンク先に捕まった他の捕虜たちと共に地上へ連行されていったその後消息不明)。 マックス・ヴァルターSS伍長(SS-Uscha. Max Walter):フランスSS突撃大隊本部通訳 生年月日生誕地不明フランスSS突撃大隊本部ドイツ語フランス語通訳務めていたドイツ人SS伍長1945年4月末のベルリン市街戦中は大隊長アンリ・フネSS義勇大尉や「ノルトラント師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将随伴市街戦重傷負い戦後1945年9月15日ベルリン市内のハレHalle病院死亡したルクセンブルククラインSS曹長(SS-Oscha. Klein):戦術学校先任曹長 ルクセンブルク国籍を持つSS曹長「シャルルマーニュ」旅団訓練期間中にヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉選ばれて「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)の中隊先任曹長Spieß)に就任し1945年4月末のベルリン市街戦にも「戦術学校」(旧称:名誉中隊)の先任曹長として参加したその後消息不明フラマン人ベルギー王国フランデレン地域出身者) ローラント・フェルファイリー武装曹長(W-Oscha. Roland Verfaillie):第3中隊第2小隊補佐 1922年7月18日ベルギー王国フランデレン地域イーペルIeper / Ypres生まれ偽名は「ファンデルファイレ」(Vanderfaille)。独ソ戦ドイツ国防軍武装親衛隊所属した外国人義勇兵の中で、1941年末のモスクワの戦い1945年4月末のベルリンの戦い両方参加した経験を持つ非常に珍しい人物(おそらくフラマン人義勇兵としては唯一の事例)。 1941年フランス国籍の取得目的としてドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)に志願。フェルファイリーは当時フランスいくつかの親独的ファシズム政党のいずれにも所属していなかったものの、高い知力屈強な体格身長182cm)の持ち主であることから入隊審査難なく通過(第245番目の義勇兵として入隊)。反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊)第Ⅰ大隊本部通信小隊一員として1941年末のモスクワの戦い経験した後、1942年時点では第Ⅰ大隊第2中隊一員として白ロシア対パルチザン戦従事した1944年9月再編成伴って武装親衛隊移籍。後に第33SS所属武装擲弾兵師団シャルルマーニュ」第58SS所属武装擲弾兵連隊本部通信小隊所属した1945年4月末のベルリン市街戦ではフランスSS突撃大隊第3中隊第2小隊長ガストン・ボムガルトネ武装連隊上級士官候補生(W-StdObJu. Gaston Baumgartner)の補佐務めたが、4月26日ノイケルンの戦いで敵狙撃兵足首撃ち抜かれ負傷した戦後、ローラント・フェルファイリーはベルリン市街戦生き残っていた少数フランス人義勇兵たちと同様にフランスへ身柄送還され裁判かけられた。その後消息不明。 クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard):フランスSS突撃大隊本部書記官 1927年生まれフラマン人生誕地不明ベルリン市街戦当時年齢18歳)。偽名は「カパン」(Capand)、「カプ」(Cap)、「カパール」(Cappard)、「カパー」(Kapar)。体格小柄ベルリン市街戦フランスSS突撃大隊本部書記官務めていたが、その事務的な役割よりも武器をとって戦闘参加する方を好み4月26日ノイケルンの戦いではMG42機関銃手1人として活躍赤軍フランスSS突撃大隊火点機関銃陣地)を潰そうとする度に素早く位置変更して応戦し同僚フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink)と連携して26日午後7時まで赤軍部隊進撃防ぎきり、4月27日付で二級鉄十字章受章した1945年5月2日夜、フランスSS突撃大隊第3中隊ピエール・ロスタン武装上級曹長グループと共にポツダム広場付近赤軍捕虜となった捕虜射殺するために赤軍兵が捕虜一同を壁の前に立たせた時、カパルトはそれまで勇気失って泣き出したが、酒に酔った赤軍将校赤軍兵を追い払って処刑中止させたため土壇場助かり生きて終戦迎えたその後消息不明。 (元)ロシア人 (→ ) セルジュ・プロトポポフ武装連隊士官候補生(W-StdJu. Serge Protopopoff):フランスSS突撃大隊第4中隊補佐(後に中隊長代行) (生年月日不明推定出生年1920年代前半フランス共和国首都パリ生まれロシア人両親ロシア革命フランス亡命した白系ロシア貴族)で、フランスに帰化祖父ロシア帝国最後内務大臣アレクサンドル・プロトポポフ(Александр Протопопов / Alexandre Protopopov)。 フランス民兵団ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団(LVF)を経て1944年9月1日付で武装親衛隊移籍1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊補佐として参加し中隊長ジャン・オリヴィエSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier)の負傷後は第4中隊長代行として活躍市街戦中に赤軍戦車を5輌撃破し赤軍砲兵観測機を1機撃墜した1945年5月1日朝、フランスSS突撃大隊第3中隊ピエール・ロスタン武装上級曹長との会話中に飛来し赤軍迫撃砲弾によって死亡市街戦中に戦車5輌を撃破していた功績を讃えられ、プロトポポフ戦死後一級鉄十字章追贈された。

※この「フランス人以外の将兵」の解説は、「フランスSS突撃大隊」の解説の一部です。
「フランス人以外の将兵」を含む「フランスSS突撃大隊」の記事については、「フランスSS突撃大隊」の概要を参照ください。

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