フランス人王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 07:26 UTC 版)
賢王の息子サンチョ7世が隠棲生活の後、1234年に死去した時、正嫡の子はおらず、ナバラ系ヒメノ家の男系は断絶した。そこで、サンチョの妹ブランカの息子でフランス貴族であるシャンパーニュ伯ティボー4世がテオバルド1世として王に迎えられた。テオバルド1世はフランス王ルイ7世の曾孫であり、また息子テオバルド2世(ティボー5世)はルイ9世の王女イザベルと結婚するなど、フランス王家とは近い関係にあり、シャンパーニュ伯家(ブロワ家)はフランスでも屈指の名門貴族であった。そのためにイベリア半島の領地よりはフランスに関心が向けられ、ナバラは次第に衰退へと向かうことになる。 ブロワ家では1274年にエンリケ1世(アンリ3世)が没して男子が絶え、幼い娘フアナ1世(ジャンヌ)を女王としたナバラは周囲の諸国から狙われることになった。フアナの母でフランス王族であったブランシュはフランス王フィリップ3世に庇護を求め、王太子フィリップ(のちのフィリップ4世)とフアナの結婚が取り決められた。フィリップは1284年にナバラ王フェリペ1世となり(翌1285年にフランス王位も継承)、ナバラはフランスから総督を通じて統治されることになった。以後、カペー朝の断絶までフランスとナバラの同君連合は続いた。ナバラ王家の血を引かないヴァロワ家のフィリップ6世の即位によって1328年に同君連合は解消され、ルイ10世の娘ジャンヌ(フアナ2世)とその夫でフランス王族のエヴルー伯フィリップ(フェリペ3世)がナバラ王位に就いた。 エヴルー家のナバラ王はフアナとフェリペの孫カルロス3世(シャルル3世)で男子が絶え、1425年にカルロスの娘ブランカとその夫のアラゴン王子フアン(のちのフアン2世)が継いだ。
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