フランス人軍事顧問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:35 UTC 版)
1867年から横浜の大田陣屋で幕府伝習隊の教練をしていたフランス軍事顧問団から副隊長ジュール・ブリュネ砲兵大尉ら5人がフランス軍籍を脱走して蝦夷政権に参加した。その他海軍からの脱走者2人、軍歴を持っていた横浜在住の民間人3人、合計10人のフランス人が蝦夷政権に参加した。ジュール・ブリュネは陸軍奉行・大鳥圭介の補佐役となり、4個「列士満」はフランス軍人(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。また、海軍の2人と、元水兵の1人は、宮古湾海戦に参加した。フランス軍人らは五稜郭陥落前に箱館沖に停泊していたフランス船に脱出している。これらフランス軍人の通訳は横浜仏語伝習所でフランス語を学んだ田島金太郎らが担当した。 大鳥圭介の南柯紀行では、ブリュネを「未だ年齢壮(わ)かけれども性質怜悧(れいり)」カズヌーヴを「頗る勇敢であり松前進軍のときにも屡(しばしば)巧ありたり」と好意的に書いている。
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