フランス代表監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 09:19 UTC 版)
「ミシェル・プラティニ」の記事における「フランス代表監督」の解説
1988年10月22日、ワールドカップイタリア大会予選においてフランス代表が各下のキプロスに1-1で引き分けると、4日後の10月26日にフランスサッカー連盟の強化責任者クロード・ベスは監督のアンリ・ミッシェルを解任。新監督としてプラティニに白羽の矢を立てた。プラティニは監督資格を所持していなかったため「最高管理者」として指揮を執り、ジェラール・ウリエがアシスタントコーチを務めた。 11月19日、敵地ベオグラードでのユーゴスラビア戦が初采配となったが2-3で敗れ、1989年4月29日に行われたユーゴスラビアとのホームゲームは0-0で引き分けた。ホームを無敗(3勝1分)という強さを持ち合わせながらアウェイでの勝負弱さ(2敗2分)が響き、全8試合を3勝2敗3分で同組のユーゴスラビア、スコットランドに次ぐグループ3位で予選敗退という結果に終わった。 1990年に入るとチームを刷新し、プラティニ世代のルイス・フェルナンデスやマニュエル・アモロスといったベテランと、エースストライカーのパパンや当時ヨーロッパ屈指のリベロと評されたローラン・ブランらを軸に、相手に時間とスペースを与えないプレッシングサッカーを志向した。同年9月から始まったUEFA EURO '92予選ではスペインやチェコスロバキアと同じ組み合わせとなったが8戦全勝で予選を突破を果たし、1991年11月20日に行われたアイスランド戦まで16勝3引分けの無敗記録を打ちたて、優勝候補の一角に挙げられた。また同年にはワールドサッカー誌の選ぶ世界最優秀監督に選ばれた。 1992年6月にスウェーデンで行われたUEFA EURO '92ではスウェーデンとのグループ初戦を1-1、第2戦のイングランド戦を0-0で引分け、最終戦ではデンマークに1-2で敗れ2分け1敗の成績でグループリーグ敗退となった。この責任を取り代表監督を辞任し、以後、監督業から引退し、いずれのクラブや代表チームを率いたことはない。
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