フランス併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:01 UTC 版)
1488年、ブルターニュ公フランソワ2世の急死で公位についたのは、まだ11歳の一人娘アンヌ・ド・ブルターニュであった。幼いアンヌをもり立てていかねばならないところを、貴族らは支配権を巡って争いを続け、そこへブルターニュ公国領併合を目論むフランスが介入することになった。ナントはフランス軍に素早く包囲された。1487年の戦いと1491年の戦い(アルブレ領主アラン・ダルブレは、最後にルイ2世・ド・ラ・トレモイユへ城を差し出した)が知られている。1491年にシャルル8世はナントへ入城した。後ろ盾のないアンヌは、シャルル8世と結婚する以外に公国を維持することができず、やむなく結婚に同意した。1498年に、子供がないままシャルルと死別。公国の独立のために、彼女はルイ12世と再婚した。 1487年から1491年まで続いた戦争で(狂った戦争、道化戦争(フランス語版)とも)、ブルターニュは敗退し、1532年のブルターニュ併合令(フランス語版)によってフランスへ併合された。独立ブルターニュ公国の最後の女公アンヌの2度のフランス王との結婚で、ブルターニュ領は将来の併合を予期していた。そして最終的に、アンヌの長女クロードとその夫フランソワ1世の時代に併合は完了した。
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