ライン左岸国民公会
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「マインツ共和国」の記事における「ライン左岸国民公会」の解説
1793年2月24日、フランスの援助の下にライン左岸国民公会の選挙が行われた。しかし、この選挙に対する住民の反応は鈍いか、あるいは反発で、強引な選挙キャンペーンを行ったものの振るわず、農村地域では選挙反対の暴動まで発生した。これは、占領フランス軍に対する抗議であった。共和国や選挙に対する態度はその地域その村によってかなりのばらつきがあるが、全般的に見て成功とは言いがたい。 ともかく選挙の後、3月17日から31日にかけて、マインツにおいて国民公会は130名の議員を集めて開会した。議長にホーフマン、副議長にフォルスターが選出され、ここに共和国宣言、神聖ローマ帝国からの離脱、選帝侯ら封権領主の統治権の無効を宣言した。共和国地域は、北はビンゲンから南はランダウまで。ただしフランス革命に対して中立を保つ領邦の土地は除かれる。 国民公会の緊要の課題は、いま成立宣言をしたばかりのマインツ共和国のフランス併合の是非であった。この問題は公会の開かれる前から問題になっており、ジャコバン・クラブでも独立派と併合派に分かれて激しい議論が行われたが、実際にフランス軍の支援無しにはマインツでの革命態勢が存続し得ないことは明らかではあった。すでに先年12月、フランクフルトは奪回されており、反革命軍はライン右岸に着々と進軍しつつあった。3月21日、フランスとの併合をフランス国民公会に求める決議が採択され、27日にはフォルスターやアダム・ルクスが派遣議員としてパリに赴き、30日のフランス国民公会で承認された。
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