ライン川西部での戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:11 UTC 版)
「レマーゲンの戦い」の記事における「ライン川西部での戦い」の解説
1945年3月1日、ライン川を渡る22本の橋と25本の鉄橋のうち、残されている橋は4本のみであった。 ケルンの『ホーエンツォレルン橋』(3月6日、ドイツ軍により破壊) ボンの『ライン橋』(3月8日の夜、ドイツ軍により破壊) ウルミッツdeの『ヴィルヘルム橋』(3月9日、ドイツ軍により破壊):509 3月上旬、米陸軍第9機甲師団(英語版)をはじめとする「ランバージャック作戦」の部隊は、ライン川西岸に追い詰められたドイツ軍を掃討し、米第9軍(英語版)の側面への反撃を防ぐ任務を与えられていた。 第1軍の南方では、ジョージ・パットン率いる第3軍も、ライン川を越えたバーナード・モントゴメリーの部隊を支援していた。しかし、ドイツ軍がルール川のダムから水を放出し谷を氾濫させ部隊の前進を遅らせたため、第1軍の前進は2週間遅れることになった。 谷が氾濫した2週間の間、アドルフ・ヒトラーは西部戦線の最高司令官であるゲルト・フォン・ルントシュテット元帥にライン川東部へ軍を撤退させることを禁じ、全軍に死守を命じた。 氾濫が収まり、2月23日に米第9軍がルール川の渡河を終えるまでに他の連合軍部隊はライン川の西岸に近づいていた。ライン川の西岸に展開していたドイツ軍の各師団は分散し、約28万人の捕虜が捕らえられ、さらに120,000人が戦死、負傷、または行方不明になった:88。
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