ライン川方面を指揮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 09:49 UTC 版)
「クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール」の記事における「ライン川方面を指揮」の解説
1701年にスペイン継承戦争が始まるとフランスへ呼び戻され、ニコラ・カティナの部下としてイタリア、ドイツ戦線を転戦した。1702年からカティナと共にライン川左岸のストラスブールに駐屯、右岸のシュトルホーフェンで防衛線を敷いた神聖ローマ帝国の司令官・バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと対峙したが、ドナウ川でマクシミリアン2世がフランス側に就いて挙兵するとヴィラールも攻勢に移り、ライン川を大きく南下してスイス国境沿いのフリートリンゲン付近で渡河、10月14日のフリートリンゲンの戦いで帝国軍を破った。被害が大きかったため11月に左岸に引き上げたが、功績を認められフランス元帥に昇進、引退したカティナの後任としてライン川戦線を受け持つことになる。 翌1703年にもドナウ川のマクシミリアン2世との合流を計画、配下のタラール伯をストラスブールに残してルートヴィヒ・ヴィルヘルムを引き付けさせ、前年と同様にフリートリンゲンを渡り北上、3月10日にライン川右岸のケールを落として橋頭堡を築き(ケール包囲戦)、東進して5月にドナウ川沿岸のリートリンゲンでバイエルン軍と合流して帝国に衝撃を与えた。9月20日にヘヒシュテットの戦いで帝国軍に勝利してアウクスブルクも落とし、ウィーンに迫る勢いであった。 ところが、アウクスブルク陥落前にフランスに召還され、フランス国内の反乱(カミザールの乱)鎮圧に回された。原因はマクシミリアン2世との対立にあり、ヴィラールはすぐにウィーンを落とすべきと主張していたのに対し、マクシミリアン2世はバイエルン周辺の領土拡大を狙ってヴィラールと衝突した。フランス王ルイ14世も数少ない同盟国バイエルンの機嫌を損ねることを恐れヴィラール召還に踏み切り、マルサンをヴィラールの代わりにドナウ川に派遣した。 1704年にタラールもドナウ川に進んだが、オランダからイングランド軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルがルートヴィヒ・ヴィルヘルムおよびプリンツ・オイゲンと合流、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍はイングランド・オーストリア同盟軍に大敗、バイエルンは占領されマクシミリアン2世はネーデルラントへ逃亡、タラールは捕虜となりマルサンはストラスブールへ後退、ドナウ川流域の勢力は消滅してライン川戦線も危うくなっていた。 ヴィラールはカミザールの乱鎮圧後の1705年に公爵に叙任、ライン川の司令官に再任され(マルサンはネーデルラントへ異動)、ライン川から北のモーゼル川で陣地を固めマールバラ公の再度のドイツ進出を防いだ。ルートヴィヒ・ヴィルヘルムにアグノーを落とされたり、1706年にネーデルラントでヴィルロワ公がラミイの戦いでマールバラ公率いる同盟軍に大敗したため、一部の軍勢をネーデルラントへの補充に回して守勢に移るなど苦戦続きだったが、1707年に死去したルートヴィヒ・ヴィルヘルムの後を継いだバイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストが守るシュトルホーフェンを5月23日に突破、一時はヴュルテンベルクにまで進出するなどドイツにおける脅威であり続けた。 しかし、1708年にライン川方面に回されたマクシミリアン2世と再度対立、フランス政府の意向でフランス南部のドーフィネへ異動させられた。ここでは同盟軍の進出を阻んだが、ネーデルラントはアウデナールデの戦いでブルゴーニュ公ルイとヴァンドーム公がマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍に敗北、リール包囲戦でも有効な手立てが取れずフランス北部の要塞リールを落とされ、フランスは追い詰められていった。
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