召集まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 14:58 UTC 版)
「帝国代表者会議主要決議」の記事における「召集まで」の解説
フランス革命に対する干渉戦争の中、フランス軍によってオーストリア軍と帝国クライス軍が撃破され、ライン川左岸一体がその支配下に置かれた。これに対して神聖ローマ皇帝フランツ2世は講和を求め、フランスとの間にリュネヴィルの和約が結ばれた。条約では、国際的にはフランス衛星国の独立確認と、フランス軍支配下のライン左岸のフランス併合が決定された。 一方、ライン左岸が帝国から離脱することで多くの諸侯が領土を失うことになり、その補償を帝国内で行うことが決められていた。補償内容を決定するに当たり、皇帝にはそれを行う権利はないが、帝国議会ではあまりにも時間がかかりすぎることから、帝国代表者会議が召集されることになった。 1801年11月7日、レーゲンスブルクの帝国議会に代表者会議が設置された。参加したのは、マインツ大司教、ボヘミア国王(=皇帝)、ブランデンブルク選帝侯(=プロイセン王)、ザクセン選帝侯、バイエルン選帝侯、ヴュルテンベルク選帝侯、ドイツ騎士団総長、ヘッセン=カッセル方伯(後にヘッセン選帝侯)である。しかし、実際にはこれら代表だけでなく、当時大国としてドイツに影響を与えていたフランスとロシアの意向も決議には反映されることになる。
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