召集、戦地へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 07:24 UTC 版)
1942年、東京渋谷の劇場に出演後、大久保の自宅に帰ったところ、召集令状が来ていることを妻から告げられた上原は顔色も変えずに支度を始めたという(妻の証言)。 ポリドールの鈴木社長、山中みゆきらに上野駅で見送られ、地元秋田で入営するため妻とともに帰郷(積極的な慰問活動の実績や30も過ぎての召集には不可解な面があるが、のちに上原敏と松本力治を別人物と判断した秋田県のミスであったことが判明した。)。 入隊後は、上原が流行歌手であることを知っていた上官から何度も「貴殿は報道班員として内地に残るように」と勧められたが、戦地行きを自ら希望し、輜重兵としてニューギニア戦線に赴いている。現地では様々な先で気軽に慰問に応じ、最前線の将兵を励まし続けた。 1944年1月には妻に宛てた軍事郵便が届き、食糧事情の苦しさを知らせてきている。戦地では、マラリアに感染し死線を彷徨った。日本軍の敗色が濃厚となってきた1944年7月、上原はウエワク方面で連合国軍の上陸による激しい戦闘に巻き込まれ消息を絶った。
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