大政奉還の成立
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10月3日、山内容堂は大政奉還建白書を老中・板倉勝静を通して慶喜に提出した。慶喜はこの方策を採用し、倒幕に進む薩長同盟の先手を打つ形で政権を天皇に返上する動きが進行することとなった。10月11日からは、京都に滞在していた10万石以上の大名の重臣に対し、「国家大事のため、見込みお尋ねの儀」があるとして13日正午に二条城へ出仕するよう回状が回された。10月12日の夜半には大政奉還の意図を示した密書を備中松山藩にいた勝静の顧問・山田方谷が受け取った。方谷は上表文の草案を密使に渡し、京へ返した。10月13日、40藩の重臣50名ほどが二条城二の丸大広間に集まった。その後老中板倉勝静が書付三通を渡すので、「見込みの廉」がある者は将軍が直々に聞くと伝えられた。これを受けて大目付・戸川忠愛と目付・設楽岩次郎が方谷が作成した上表文を含む書付を3通渡し、「見込み」のある者は残って慶喜に面会するように伝えた。これを受けて土佐藩の後藤象二郎と福岡孝弟、薩摩藩の小松帯刀、芸州藩の辻維岳、宇和島藩の都築温、備前藩の牧野権六郎ら6名が慶喜に拝謁し、ほかの諸藩重臣は書面に了承した旨を記入し返却している。これにより、幕府の大政奉還の意向が公的に表明された。 その後、上表文は文案で「我」となっている部分を「臣慶喜」と修正し、「十月十四日 慶喜」で結ぶ形とされた。翌10月14日に慶喜は高家の大沢基寿を使者に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれに困惑したが、小松帯刀、後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で受理の決定が行われ、慶喜に沙汰書が授けられた。この沙汰書において、衆議を尽くしたうえで今後を決定し、将軍家の領地についても追って決定するとしている。同日、朝廷は10万石以上の諸大名に上洛を命じている。 大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあったものの、上表は薩摩藩らの最大の関心事であった将軍職辞任には一切触れておらず、なお慶喜は武家の棟梁としての地位を失っていなかった。10月14日、慶喜は小松帯刀に対し、辞職を表明すれば家臣たちが不服を抱くであろうと述べている。しかし小松が辞職するべきだと進言したこともあり、慶喜は10月24日に征夷大将軍辞職も朝廷に申し出る。 幕府は朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても依然として公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えていたといわれる。見通しの通り、10月22日には国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き幕府に委任され、将軍職も暫時従来通りとされた。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くことになった。 実際に朝廷は外交に関しては全く為す術が無く、10月23日に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を行ったのは幕府であった。 朝廷は慶喜に当分の間引き続き庶政を委任し、諸大名に上京を命じたものの、形勢を観望するため上京を辞退する大名が相次ぎ、将軍職を巡る慶喜の進退に関し何ら主体的な意思決定ができぬまま事態は推移した。11月中に上京した有力大名は薩摩・芸州・尾張・越前の各藩のみで、土佐藩の山内容堂が入京したのがようやく12月8日であった(王政復古クーデターが勃発するのはその翌日である)。この間、土佐藩は坂本龍馬を越前藩に派遣するなど公議政体構想の実現に向けた努力を続けていた。 他方、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らの間には大政奉還が薩摩・土佐両藩の画策によるものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。
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