大政奉還以後
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慶応3年10月14日(1867年11月9日)、徳川慶喜が大政奉還をすると朝廷は、まず10万石以上の諸侯を京都へ召し、21日には1万石以上の大名にも上京すべき旨を達した。当時岩村藩主の松平家乗は江戸にいたが、江戸家老の澤井市郎兵衛が佐幕党の幹部であったので「主家は徳川家の譜代、藩祖以来の縁故を顧みれば、徳川家と存亡を共にする外情義他にみるべきなし」と自論を主張し動かなかった。岩村城にいた重臣たちは藩主が上京することで意見が一致し、岩村と江戸とで藩論を二分する事態となった。岩村藩の文学者の原田文嶺らは勤王の事に従おうとしたが、藩命によってより蟄居を申し付けられた。ついで平尾鍒蔵が勤王の説を述べて幽閉された。11月21日、岩村藩では反論が二分したままで結論が出ないため、謹慎中であった岩松傳藏に京都へ上京させ、情勢を視察させた。岩松は12月20日に岩村へ帰着し、乗政寺にて藩臣が会議を行った。その会議において藩論は勤王に定まり、藩主の上京を促すべく江戸屋敷に急行した。佐幕党の幹部であった澤井市郎兵衛とその息子は、藩主の上京を抑止した理由で蟄居を命じられて岩村へ送致されることになったが、その途中の小田原で脱走し、幕脱走士に加わって各地で戦った。 慶応4年(1868年)1月21日、官軍は京都を出発し江戸へ向かった。1月27日に官軍(中山道鎮撫総督)は沿道の諸藩に朝廷へ従うように布告した。岩村藩は丹羽瀬市左衛門が、藩主の松平乗命が徳川慶喜に仕えていたことを陳謝し免罪を請うた。4月に岩村藩は、苗木藩および尾張藩と共に信州防衛のために出兵するように朝命を受け、岩村藩と苗木藩は中山道を松本を経て善光寺に到り守備に就いた。しばらくして、信州防衛を免ぜられ甲府守備に転じたが、程なく帰藩した。8月6日に松平乗命が上京のため出発し、8月15日に京都へ到着。8月20日に京都御所へ参内し、忠誠を誓った。それにより京都鞍馬口の警衛を命じられ、部署に付いて奉仕した。 明治2年(1869年)、乗命は版籍奉還により岩村藩知事に任じられる。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で岩村藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。明治17年(1884年)の華族令で子爵に列せられる。 明治38年(1905年)11月15日、東京で死去。享年58。
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