大政奉還以後とは? わかりやすく解説

大政奉還以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 15:18 UTC 版)

松平乗命」の記事における「大政奉還以後」の解説

慶応3年10月14日1867年11月9日)、徳川慶喜大政奉還をすると朝廷は、まず10万石以上の諸侯京都召し21日には1万石以上の大名にも上京すべき旨を達した当時岩村藩主の松平家乗江戸にいたが、江戸家老澤井市郎兵衛佐幕党の幹部であったので「主家徳川家譜代藩祖以来縁故顧みれば徳川家存亡共にする外情義他にみるべきなし」と自論主張し動かなかった。岩村城にいた重臣たちは藩主上京することで意見一致し岩村江戸とで藩論二分する事態となった岩村藩文学者原田文嶺らは勤王の事に従おうとしたが、藩命によってより蟄居申し付けられた。ついで平尾勤王の説を述べて幽閉された。11月21日岩村藩では反論二分したままで結論出ないため、謹慎であった岩松京都上京させ、情勢視察させた。岩松12月20日岩村帰着し乗政寺にて藩臣会議行った。その会議において藩論勤王定まり藩主の上京を促すべく江戸屋敷急行した佐幕党の幹部であった澤井市郎兵衛とその息子は、藩主の上京を抑止した理由蟄居命じられ岩村送致されることになったが、その途中小田原脱走し、幕脱走士に加わって各地戦った慶応4年1868年)1月21日官軍京都出発し江戸へ向かった1月27日官軍中山道鎮撫総督)は沿道諸藩朝廷へ従うように布告した岩村藩丹羽瀬市左衛門が、藩主松平乗命徳川慶喜仕えていたことを陳謝し免罪請うた。4月岩村藩は、苗木藩および尾張藩と共に信州防衛のために出兵するように朝命を受け、岩村藩苗木藩中山道松本経て善光寺到り守備就いたしばらくして信州防衛を免ぜられ甲府守備転じたが、程なく帰藩した。8月6日松平乗命上京のため出発し8月15日京都到着8月20日京都御所参内し忠誠誓った。それにより京都鞍馬口警衛命じられ部署付いて奉仕した明治2年1869年)、乗命は版籍奉還により岩村藩知事任じられる明治2年1869年6月版籍奉還岩村藩知事任じられ明治4年1871年7月廃藩置県免官された。明治17年1884年)の華族令子爵に列せられる明治38年1905年11月15日東京死去享年58

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