大政奉還成立
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こうして一旦は潰えたかに見え大政奉還であったが、後日、急速な進展を見せる。9月20日、幕閣・永井尚志が、大政奉還建白書の提出を、内々に促してきたのである。 幕府側に、政権返上を検討する意思があると知った後藤象二郎は、10月2日に薩摩藩にも了承を取り付け、翌3日には建白書を提出した。 前述のように、慎太郎は早くから大政奉還の必要性を説き続けていたものの、同時に、現実的な手段として武力倒幕の準備を進めてきた。しかし、薩長芸三藩の挙兵計画が延期するなど、武力倒幕路線が停滞する中、大政奉還の建白書提出が実現されたことを知ると、これに歓喜し、10月3日の本山只一郎宛ての書状で、「これ以上ない良策であり、(大政奉還実現のために)必死の覚悟で尽力していく心得にございます」と述べている。 10月9日、永井は後藤に、建白書を採用するとの内報を告げた。 そして13日、徳川慶喜は二条城に、在京諸藩の重臣たちを集め、大政奉還を表明(幕臣たちには前日に内示)。翌14日に上表文を朝廷へ提出し、15日に受諾された。
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