大政奉還後の国家構想
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大政奉還上表の前日の10月13日、慶喜は開成所教授職を務めた幕臣の西周に対し、イギリスの議院制度等に関して諮問を行っている。大政奉還成立後の11月、西周は意見書として「議題草案」を慶喜側近の平山敬忠に提出している(他にも慶喜周辺に存在した構想として、津田真道の「日本国総制度」(同年9月)などが知られている)。 西周はこの中で、徳川家中心の具体的な政権構想を示している。西洋の官制に倣う三権分立が形式的にではあるが取り入れられ、行政権を公府が(暫定的に司法権を兼ねる)、立法権を各藩大名および藩士により構成される議政院がもつこととしており、天皇は象徴的地位に置かれている。公府の元首は「大君」と呼ばれ、徳川家当主(すなわち慶喜)が就任し、上院議長を兼ね、下院の解散権を持つものとされていた。軍事については、当面各藩にその保有を認めるが、数年後には中央に統合するものとされた。その他、従来の諸大名領を現状のままとし、公府の機構は幕府のそれとの関連が意識されているなど、極めて現実的な計画であった。 また、11月27日、永井尚志(幕府若年寄格)は後藤に対し、慶喜には将来的に郡県制を施行する構想があることを伝えている。
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