大政奉還後の政局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:30 UTC 版)
薩摩藩の大久保利通、小松清廉、西郷隆盛らは、慶応3年(1867年)5月の四侯会議の失敗から、従来の公議体制路線を改め、武力倒幕路線に転換する。大久保らは謹慎中の公家・岩倉具視と連携し、討幕の密勅を得るべく朝廷工作を始めていた。軍事的緊張が高まるなか、土佐藩では坂本龍馬に助言(船中八策)された後藤象二郎が、武力激突を回避する大政奉還論を前藩主・山内容堂に提案。自らの政治的影響力を保持したいと考えた将軍・徳川慶喜は在京の諸藩士を10月13日に二条城に招集して大政奉還を諮問(14日に明治天皇に奏上して15日に勅許)。同じ13日、薩摩藩へ(翌日には長州藩へ)討幕の密勅が下される寸前に、討幕派の機先を制した恰好となった。 慶喜としては、まだ年若い明治天皇(当時数え16歳)を戴く朝廷に政権担当能力はなく、やがて組織されるであろう諸侯会議で自らが議長もしくは有力議員となるなどの手段で、政治的影響力を行使できるだろうという目論見の上での政権返上であった。果たして倒幕派の勢力はまだ弱く、10月21日に朝廷は討幕中止を指示。翌日には大名会議開催までの庶政を慶喜に委任する決定を下し、さらに23日には外交権がまだ幕府にあることを認める通知を出す。こうした状況下、24日に慶喜は将軍職辞職願を提出するが、これは一時朝廷から却下された後、受理されている。 倒幕派は勅命を出して諸藩に上京を命じるが、政局の激変に様子見している藩が多く、応じる藩は少なかった。11月13日、島津茂久(薩摩藩主)率いる薩摩軍3000人が上京するが、他藩の動きは鈍かった(なお同じく倒幕派の長州藩は禁門の変以来朝敵となっており、入京を許可されていなかった)。
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