大政奉還と王政復古(1866年 - 1867年)
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「幕末」の記事における「大政奉還と王政復古(1866年 - 1867年)」の解説
家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、征夷大将軍職への就任は拒んでいた。だが、5か月後の1867年1月10日(慶応2年12月5日)ついに将軍宣下を受け将軍就任し、家茂の弔い合戦として長州を制圧することを公言する。孝明天皇は慶喜を非常に信頼しており、長州征討に反対した大原重徳ら22卿を処罰するほどだった。しかし、1月30日(慶応2年12月25日)に天然痘のため天皇は崩御する。2月13日(慶応3年1月9日)に睦仁親王が践祚する運びとなった(明治天皇)。 薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促し、6月6日(慶応3年5月4日)から 四侯会議を開催して兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した。6月26日(慶応3年5月24日)には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあった。さらに慶喜はフランス公使ロッシュの助言を容れ、フランス式の軍事訓練が行われたほか、榎本武揚らのもとで幕府海軍が整えられた。小栗忠順や栗本鋤雲らが中心となってフランスとの大借款の相談も行われた。また、老中制度も改められ、老中首座の板倉勝静(備中松山藩主)を首相格として各老中が陸軍・海軍・国内事務・会計・外国事務の各総裁を兼務する内閣に似たかたちがとられ、さらに次官にあたる諸奉行にも有能な人材が抜擢されるようになった(→慶応の改革)。 こうして幕府が息を吹き返そうとする状況の中、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・芸州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、7月23日(慶応3年6月22日)には薩土盟約が締結される。これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る山内容堂に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから10月4日(慶応3年9月7日)盟約は解消。結局土佐藩は10月29日(慶応3年10月3日)単独で山内容堂が老中の板倉に大政奉還の建白書を提出した。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・芸州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の祖父)・中御門経之・正親町三条実愛らによって、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に討幕の密勅が下された。ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を採用し、同日に大政奉還を明治天皇に奏請しており、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により江戸幕府による政権は形式上終了した。 慶喜は1867年11月19日(慶応3年10月24日)に将軍職辞職を申し出たが、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画する。1868年1月3日(慶応3年12月9日)に、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の将軍職辞職を勅許、幕府・摂政・関白などが廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与などからなる新政府樹立が発表された。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜への辞官および領地返上が議題となる。会議に参加した山内容堂や松平春嶽は猛反対するが、岩倉や大久保らが押し切り、辞官納地が決定された。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、旧幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちした。 なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。
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