不平等条約の締結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:25 UTC 版)
江戸幕府が安政5年(1858年)にアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと結んだ通商条約(安政五カ国条約)は、 外国に領事裁判権を認め、外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されないこと(治外法権)。 日本に関税自主権(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限)がなく、外国との協定税率にしばられていること。 無条件かつ片務的な最恵国待遇条款を承認したこと。 などの諸点で日本側に不利な不平等条約であった。2.については、特に慶応2年(1866年)、列強が弱体化した幕府に圧力をかけて結ばせた改税約書の調印以降は、それまでの従価税から従量税方式に改められ、関税率5パーセントの低率に固定された状態となったため、安価な外国商品が大量に日本市場に流入して貿易不均衡を生んだ。 1878年(明治11年)、駐英公使の上野景範がイギリス政府に指摘したところによれば、日本の関税は一律5パーセントであるのに対し、「自由貿易の旗手」を自任し、欧米諸国のなかで最も関税が低く抑えられているはずのイギリスでさえ、その対日輸入関税率は、無税品を含めても平均10パーセントを超えていた。その結果、日本の歳入に占める関税収入はわずか4パーセントにとどまったのに対し、イギリスのそれは26パーセントにおよんだ。また、明治時代の法学者で政治家でもある小野梓の推計によれば、各国の歳入の中心にしめる関税額の比率は、イギリス22.1パーセント、アメリカ53.7パーセント、ドイツ55.5パーセントであるのに対し、日本は3.1パーセントにすぎなかった。さらに、明治・大正期に政治家・ジャーナリストとして活躍した島田三郎によれば、日本は一律5パーセントの関税を外国なみの11パーセントに引き上げることができれば、醤油税(年120万円の国家歳入)、車税(同64万円)、菓子税(同62万円)、売薬税(同45万円)など、主として農民がその大部分を負担した重い間接税を全廃できたという。 日本は、国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要としたのであった。 財政難の政府は輸出品にも関税をかけたので、国内産業の発展にも大きなブレーキがかかった。日本は、関税自主権を有しないところから生じる損失を、のちに朝鮮(日清戦争後は清国も)との不平等条約の締結やダンピング輸出で回収しようとした。 外国人居留地は、安政条約で開港場とされた5港(箱館、横浜、長崎、新潟、神戸)および開市場となった2市(江戸の築地、大坂の川口)に設けられ、幕府(のち政府)当局と外国の公使・領事の協議によって地域選定や拡張がなされ、日本側の負担で整地し、道路・水道などの公共財を整備することとなっていた。居留地では、領事裁判権が認められ、外国人を日本の国内法で裁くことができず、また、日本人が居留地に入るには幕府(政府)の官吏でも通行印が必要であった。その一方、外国人も行動範囲が「遊歩規定」によって制限されており、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域(居留地外で外国人が自由に行動できた区域)のさらに外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も内地旅行免状が必要であった。居留地の外国人が居留地外で商取引をすることは禁じられていたが、その国の領事等を通じて日本当局から土地を借り受け、一定の借地料(地税)を支払うこととなっていた。この借地権は永代借地権と称し、永久の権利とされ、他者に売買したり譲渡することが可能であった。 不平等条約の締結は、金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなり(幕末の通貨問題)、尊皇攘夷運動の激化とそれにつづく討幕運動を招いたが、実際のところ幕末期にあって問題視されたのは不平等性そのものというよりは、むしろ日米修好通商条約をはじめとする五カ国条約が朝廷の許しを得ない無勅許条約だった点にあった(これは江戸幕府はその成立期に禁中並公家諸法度により朝廷を統制し政治権力を剥奪しており、単独で条約を締結しても問題がなかったにもかかわらず、幕末に至って幕府の権威が揺らいでいたことから条約締結の正当性を担保するため、朝廷の承認を求めたところ、案に相違して朝廷から拒否されたこと、その事実を反幕府勢力に利用され、喧伝されたことに端を発する)。 慶応3年(1867年)の大政奉還と王政復古の大号令によって江戸幕府が倒れ、薩摩藩・長州藩など西南雄藩の下級武士や倒幕派公家などを中心に明治新政府が成立した(明治維新)。慶応4年1月15日(1868年2月8日)、列国公使に「王政復古」と「開国和親」を伝えた新政府は、幕府から外交権を引き継ぎ、詔勅をもって「これまで幕府が諸外国と取り結んだ条約のなかには弊害の無視できないものもあるので改正したい」旨の声明を発した。戊辰戦争のさなかの3月14日、新政府は明治天皇が神々に誓うかたちで五箇条の誓文を明らかにし、公議輿論の尊重と開国和親の方針を宣言した。 戊辰戦争が新政府優勢の戦況で推移し、日本の正統な政権であることがしだいに諸外国に認められるようになると、新政府は、明治元年12月23日(1869年2月4日)に諸外国に対し、旧幕府の結んだ条約は勅許を得ずに締結したものであることを改めて指摘し、将来的な条約改正の必要性について通知した。 いっぽう、明治2年正月に北ドイツ連邦とむすんだ条約では、安政条約にない沿岸貿易の特権を新たにドイツにあたえ、同2年9月14日(1869年10月18日)、オーストリア・ハンガリー帝国を相手に結んだ日墺修好通商航海条約では、それまで各国との条約で日本があたえた利益・特権をすべて詳細かつ明確に規定し、従来解釈揺れのあった条項はすべて列強側に有利に解釈し直された。この条約では、領事裁判権について、従来の条約以上に日本側に不利な内容が規定に盛りこまれたが、これらは、いずれも五カ国条約中の片務的最恵国待遇の規定によって他の欧米列強にも自動的に適用された。以来、不平等条約の集大成ともいえる日墺修好通商航海条約が条約問題交渉の際の標準条約とされた。これは、条約改正の観点からみればむしろ日本側の後退を意味していた。
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