条約港
(開港場 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 01:56 UTC 版)
条約港(じょうやくこう)は、不平等条約によって開港を規定された港湾。開港場ともいう。
- ^ a b c d e f g h i j k l 幕末から明治初年にかけての日本近海英国海図 ―日本水路部創設前の海図史― (PDF) (海上保安庁「海洋情報部研究報告 第43号」 2007年3月28日)
- ^ a b c d e f g 下田港の歴史(下田市観光協会「伊豆下田観光ガイド」)
- ^ 「函館市史」通説編1 3編5章4節1-1〜2(函館市中央図書館)
- ^ “「大阪港150年史-物流そして都市の交流拠点-」33頁”. 大阪港湾局 (2021年7月). 2024年4月20日閲覧。
- ^ “「大阪港150年史-物流そして都市の交流拠点-」35頁”. 大阪港湾局 (2021年7月). 2024年4月20日閲覧。
- ^ a b 五稜郭・箱館戦争・箱館 年表(五稜郭タワー)
- ^ 【函館市|歴史】(日本開港五都市観光協議会)
- ^ 【長崎市|歴史】(日本開港五都市観光協議会)
- ^ 【横浜市|歴史】(日本開港五都市観光協議会)
- ^ a b c 【神戸市|歴史】(日本開港五都市観光協議会)
- ^ Landscape View at Yokohama(Yokohama fūkei)(メトロポリタン美術館)
- ^ 摂州神戸海岸繁栄之図(文化庁「文化遺産オンライン」)
開港場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:51 UTC 版)
草案では、候補地として、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港となっていた。これに対し、幕府全権の岩瀬忠震は横浜の開港を主張し、大坂の開港に反対した。大坂が開港すると経済の中心が完全に大坂に移り、江戸の経済的地位が低下するというのが理由であった。ハリスは品川は遠浅で貿易港に適しないことを理解し、横浜開港に同意した。しかし、江戸・大坂の大都市を開港することを強く要求したため、商取引のための滞在のみを許すということで同意された。大坂の外港として兵庫が開かれることとなった。平戸は小さすぎ、また長崎近郊に炭鉱が発見されていたため、九州の開港場は長崎のみとなった。日本海側はとりあえず新潟が選ばれた。ただし、幕府は新潟、兵庫、江戸、大坂は後に開くことを主張し、認められた。 なお、幕府側の開港予定地は横浜であったが、交渉の過程で神奈川・横浜となり、条約には神奈川のみが記載された。実際に開港したのは横浜のみであったため、条約を結んだ各国から批判もされたが、幕府は横浜を神奈川の一部と主張した。結局幕府は領事館を神奈川に設置することを認めたが、実務上は横浜の方が有利であり、早いうちに各国領事館は横浜に移動した。また兵庫ではなく神戸が開港している。
※この「開港場」の解説は、「日米修好通商条約」の解説の一部です。
「開港場」を含む「日米修好通商条約」の記事については、「日米修好通商条約」の概要を参照ください。
「開港場」の例文・使い方・用例・文例
開港場と同じ種類の言葉
- 開港場のページへのリンク