開港前の羽田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:43 UTC 版)
「鈴木新田 (大田区)」、「羽田町」、および「穴守稲荷神社」も参照 江戸時代後期、羽田村沖の干潟が新田開発を目的として干拓され、この干拓地は鈴木新田、後には羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町という地名が付けられた。幕末には東側に拡張され、江戸防衛のための砲台が設置された(御台場、後に羽田御台場・鈴木御台場・猟師町御台場と命名)。この干拓地は現在の羽田空港1・2丁目に相当する。 明治時代から昭和時代前期にかけて、一帯は鈴木新田鎮守である穴守稲荷神社の鳥居前町として発展し、後には穴守稲荷神社への参拝者輸送の為に京浜電鉄穴守線(現在の京急空港線)が建設された。京浜電鉄が経営する羽田運動場や羽田穴守海水浴場、更には羽田競馬場もあり、穴守稲荷神社を中心とした東京の一大観光地・保養地であった。 1917年(大正6年)、相羽 有が日本飛行学校を穴守に開校した。多摩川河川敷(主に川崎側)を滑走路として利用していた。1923年(大正12年)の関東大震災の時に鉄道が壊滅的被害をうけ、帝国飛行協会副会長の長岡外史は飛行機による物資輸送の重要性を主張し、羽田に飛行場が必要だと提言した。
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