開港地の選定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:42 UTC 版)
日朝修好条規において、釜山以外に二港を開港するとしながら、どこにするかという具体論になると交渉は難航した。日本は候補の一つとして文川郡松田里を強く推したが、その地は王陵(王家の墓地)があるために朝鮮側が難色を示した。代替として候補に挙がったのが徳源府元山津であった。日本はこれを受け入れ、1880年5月開港となった。日本は十万坪強の居留地を設定し、領事館を置いた。元山は単に貿易の要所としてだけでなく、対ロシアの拠点としての機能も重視された。そのため明治政府は積極的な移住政策を推し進めた。 もう一つの開港地として日本側が求めたのは仁川府済物浦である。仁川は朝鮮の首都漢城の外港にあたる地であるため交渉は非常に難航したが、朝鮮側が妥協して1881年2月受諾を通告してきた。ただ実際の開港は壬午事変が発生したため、延期となった。1882年に領事館が置かれたものの、開港はさらに遅れ、最終的には1883年1月になって漸く開港された。同年9月には七千坪ほどの居留地が設けられた。
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