開港までの経緯
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啓徳空港は、香港の中心地から至近の九龍にあったものの、敷地が狭く設備が老朽化していた。空港の北側に山があり、直線のアプローチは不可能なため、旅客機は西側から進入し、九龍仔公園上空近辺で機体を大きく傾けつつ右に90度旋回させ、ビル群すれすれの高さを飛行して滑走路13に着陸する通称「香港アプローチ」が知られていた。機体操作には高度な技術が要求され、近隣住民にとってもその騒音は無視できない問題だった。 1980年代後半までに啓徳空港はすでに処理能力の限界を越えて稼働されており、しかも地理的な状況から拡張は困難な状況にあった。そうした中で、イギリスから中華人民共和国への香港返還を控えて、最後の香港総督となったクリストファー・パッテンは、1992年の着任早々に新空港の建設を決定した。 九龍半島の西に位置するランタオ島沖の赤鱲角島(チェクラップコク島)の山を削って、そこで得た土砂で島周辺の海域を埋め立て、1248haの空港島を造成し、3800mの平行滑走路二本とその間に空港ターミナルを建設する。さらに空港ターミナルから香港島の中環まで全長35㎞の空港連絡鉄道を建設する。これを1997年7月1日の香港返還までの5年という極めて短い期間で完成させることを目標とした、壮大かつ意欲的な一大プロジェクトだった。 1997年7月1日の香港返還当日に開港するという予定は、新空港をイギリスの「置き土産」とするために政治的な判断によって決定された。しかし専門家の意見では、この規模のプロジェクトには最低10年は必要と言われていた。建設工事は「イギリス統治下における最後の大事業」として、イギリスの建設会社を中心に行われた。しかしチェクラップコク島の土木工事より工程が遅延し、予定より1年遅れで完成の目途が立った。
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開港までの経緯
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東港区の開発までの経緯については「苫小牧東部地域」を参照 苫小牧周辺の漁業は「樽前浜」と呼ばれ、江戸時代末から明治時代当初、イワシの地引き網と金肥の魚粕(〆粕)づくりで賑わっていたが、明治時代の末になると漁が衰え、沖合い漁を望む声が高まった。そこで、漁業権を持っていた今井寅之助は1918年(大正7年)に私財を投げ打って勇払川河口に漁港築港を試みた。これが苫小牧の港造りの先駆けとなった。その後、苫小牧町や漁家の永井勇三郎が漁港造りを試みたが、いずれも打ち寄せる波と潮の流れで水路が砂に埋もれてしまった。1923年(大正12年)に苫小牧町は初めて政府や国会へ勇払原野の開発と苫小牧港開発を陳情した。1924年(大正13年)には当時の留萌築港事務所長であった林千秋が、北海道庁で発行していた『港湾持論』の中で「勇払築港論」を発表した。1935年(昭和10年)に試験突堤を造り、1939年(昭和14年)には北海道庁も本格調査に乗り出すなど、築港への動きが進んでいった。 戦後、1949年(昭和24年)に衆議院議員に当選した篠田弘作が国会で勇払原野の開拓と工業港築設の必要性を訴えた。岩倉巻次の支援もあり、1935年に着工したまま波に洗われていた試験突堤が港湾調査規則上の「港湾」として認められた。1950年(昭和25年)には防波堤を築く試験工事が行われ、国の昭和26年度予算でついに苫小牧港築港のための予算が計上された。当初は、石狩炭田で採掘した石炭を本州に向けて積み出す拠点港として整備した。これは、産炭地から海までの距離が短く、室蘭港と比べて貨物輸送の運賃が安い優位性があったからである。
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