開港と混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 04:12 UTC 版)
「エマーム・ホメイニー国際空港」の記事における「開港と混乱」の解説
当初の開港予定は2004年2月1日(「10夜の夜明け」=革命記念週間の初日)が予定された。しかしイラン石油省との協定調印の不調による新空港への燃料供給懸念など問題が山積、開港は同年5月8日まで遅延した。さらに開港を目前にして地元航空会社2社が新空港への移転を拒否する事態が出来した。経済紙「ハヤーテ・ノウ」は半官半民の航空会社イラン・アーセマーン航空の社長アリー・アーベドザーデの「私たちは外国人の運営する空港からは飛ばさない」という言葉を引いている。 5月7日、当局はTAVに空港からの機材・人員の引揚を命令、運営はイラン航空に委ねられた。これについても後を受けた空港支配人ホセイン・ピールーズィーは「TAV関係者はまだ空港運営を行っているとの報告であった。全員が金曜日までに空港から立ち去っていたにもかかわらず、である。私は軍から虚偽の報告を与えられたのだと考えている」と発言している。 5月8日にエマーム・ホメイニー国際空港は開港した。しかし、数時間もたたないうちに、空港運営における外国人の関与と、それによる航空保安上の懸念を理由として革命防衛隊の手で閉鎖されてしまった。結局、着陸が許可されたのはドバイからのエミレーツ航空の第一便のみで、続く同じドバイからのイラン航空便は新空港が閉鎖されていたうえにメヘラーバード国際空港への着陸も許可されず、エスファハーン国際空港への目的地変更を余儀なくされ、残余の便はすべて着陸空港をメヘラーバードへと変更されたのである。5月11日、トルコ外務省のユギュル・ズィヤル次官はイランのキャマール・ハッラーズィー外相と会談、この件に関するイラン軍の活動に懸念を表明した。 5月13日、新空港は再開された。革命防衛隊の幕僚代理としてアリー・アフシャール准将は「外国企業はすでに空港運営から離れており、保安上の懸念はすでに解消した」と発言。一方、TAV側は論争解決のために2週間の退去で合意したものの、TAVが第1ターミナル運営を行うというイラン政府との署名協定書がいまだに効力を持つと信じる、と述べている。 さらに問題をややこしくしたのが、2005年4月29日に英国およびカナダが発出した両国市民への空港利用に関する警告である。警告では、エマーム・ホメイニー空港の滑走路が以前のガナート(地下水路)上に建設されており、安全性に懸念があるとした。イラン当局はこれについて、同空港は国際民間航空機関による調査・認証を経ており、安全上の問題はないとの反論を行っている。
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