開港から太平洋戦争まで
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1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に「日米和親条約」が締結。マシュー・ペリー (Matthew Calbraith Perry) は旗艦以下5艦を率いて同年5月17日(4月21日)に箱館湊に入港して測量などを行った。この際、複数の乗組員が箱館とイベリア半島先端のジブラルタルがよく似ているとの印象を受けたという。翌1855年(安政2年)、薪水や食料の補給港として箱館が使用されることになったため、江戸幕府は箱館付近を直轄領として箱館奉行を置き、湊の防衛と外交のために奉行所移転を進めた。本格的な貿易のための開港ではないので外国人との交易行為は禁止されていたが、外国船の入港が始まると実質的な物品売買を避けることは困難であった。1859年(安政6年)、箱館奉行は外国人居留地のため大町の埋立に着手し、周辺も個人の手により埋立が行われた。同年7月1日(6月2日)、「安政五カ国条約」により開港して貿易が始まるが、横浜港・長崎港と比較すると貿易額は決して高くはなかった。その後、コンブを中心とした海産物を主に清に向けて輸出していた。 明治になると戊辰戦争が勃発。箱館湾は箱館戦争の戦場となる。1869年(明治2年)、明治政府は蝦夷地を直轄化して開拓使の所管とし、箱館を「函館」と改称。箱館港も「函館港」と改称する。1879年(明治12年)から港湾整備の調査が行われた。当時の内務省技師・ローウェンホルスト・ムルデル (Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder) の提言に基づき、亀田川を津軽海峡に面する大森浜へ付替え、砂や泥の港への流入を防いだ。同年に開拓使は三菱会社(三菱財閥)に青函航路を運営委託したが貨物の扱いなどの評判が悪く、1882年(明治15年)に開拓使が廃止されて農商務省に移管後、船は北海道運輸会社に貸与された。同年に北海道運輸が合併し共同運輸会社を設立して青函航路を開設すると、三菱との間で激しい競争が起きた。共倒れの懸念などから政府が仲裁に入り、1885年(明治18年)9月に両社が合併して日本郵船が設立された。 1896年(明治29年)から函館港の本格整備が始まり、港内の浚渫や砂防堤・防波堤・灯台の設置、埋立てによる埠頭の建設などが行われた。この工事の一環として整備された広井勇が手掛けた石積み防波堤「函館漁港船入澗(ふないりま)防波堤」は北海道で最初の近代港湾施設といわれ、「函館港改良施設群」として「土木学会選奨土木遺産」に選定されている。日露戦争後に締結した「ポーツマス条約」(日露講和条約)により樺太を獲得し、ロシアが日本海・オホーツク海・ベーリング海沿岸の漁業権を日本に許与すると、函館港は露領漁業の策源地としての地位を確立した。1908年(明治41年)には青森港との間に日本国有鉄道(国鉄)の青函連絡船が開設。1921年(大正10年)に蟹工船が操業開始となり、1927年(昭和2年)に鮭鱒沖取工船が操業開始するなど、大正期から昭和戦前期にかけては北洋漁業基地としての全盛期を迎えた。1932年(昭和7年)には西埠頭が供用開始。若松埠頭と有川埠頭が青函連絡船発着に加わったことで機能が高まった。太平洋戦争(第二次世界大戦)の真っ只中には北海道の石炭を本州へ輸送する役割を果たしたが、1945年(昭和20年)7月の米軍による北海道空襲では客貨船4隻と貨物船6隻が沈没し、2隻が損傷した。なお、空襲以前に2隻が海難事故で沈没しており、壊滅状態であった。
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