開港からジェット化まで
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1943年に陸軍により建設された松本飛行場は当空港の北側一部が跡地であり、当空港と直接の繋がりはない。 1963年2月18日に着工。建設費は3億7300万円。開港後、まず1966年8月5日から17日までの期間限定で、東亜航空(後の日本エアシステム)が大阪国際空港との1日1往復コンベア240による不定期便を開設。その後、1966年10月20日から同空港との間に不定期ではあるが、主に乗客の多い夏季に路線が開設されるようになった。開港当初から、東京国際空港間の路線を開設しようとする動きがあったが、東京都立川基地上空の飛行制限などから迂回ルートとなり、採算が望めないという理由で、一度も開設されなかった。その他用途としては、長野県警察本部の山岳警備用ヘリコプターの発着や軽飛行機用に細々と運営される状況であった。大阪線は1982年から通年運航となり、東亜国内航空(当時)のYS-11が1日2往復する状態が1993年まで維持された。 その後、当空港も1980年代後半になって運輸省(当時)による地方空港整備計画に基づき滑走路の延長計画が表面化してきたが、併せて1998年の長野オリンピック開催決定に伴う長野県内のインフラ整備の一環として、開催時の空の玄関口として面目を一新すべく、全面的な改修工事が施される事となり、1993年5月をもって一旦運航を休止。総工費364億円を投じて滑走路の1500mから2000mへの延長及び舗装改良、老朽化・陳腐化の目立っていたターミナルビルも改築の上、1年2ヶ月後の1994年7月26日に再開した。 日本エアシステム(当時)は、従来の大阪線に加え、福岡線と札幌線もジェット機であるMD-87により新設。3路線による新生・松本空港の運営が始まったが、この後、長野オリンピックまでの3年半余りは、そのカウントダウンに合わせ、松本空港を長野県の空の玄関として活性化させようという気運が高まる中、相次ぐ路線新設も行われる事となった。 長野オリンピック閉幕翌日の1998年2月23日には関西国際空港へ臨時便が5便運航され、外国の選手・報道関係者等の帰国に際してフル稼働を果たしたが、皮肉にも改修の一大目的であったこの大イベント終了後は、利用者が漸減の一途をたどっていく事となる。
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