明治時代から昭和時代
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参議勝長のとき明治維新に至り、勝長の子息義長が華族に列し伯爵を授けられた。義長の子息受長は、幼い大正天皇の学友に選ばれたのをはじめ、侍従次長・掌典長などとして大正・昭和の両天皇に仕えた。
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明治時代から昭和時代
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「三津 (京丹後市)」の記事における「明治時代から昭和時代」の解説
1889年(明治22年)に三津は島津村の大字となり、1950年(昭和25年)に網野町に編入して網野町の大字となり、2004年(平成16年)京丹後市への移行に伴い現在の大字となった。 江戸時代から明治時代中頃までの交通は海上交通の利便性が高く、陸上交通が注目されるようになったのは明治末期からである。昭和初期に定期バスが入るようになった。当時の三津を含む島津地区の陸上交通は、このほかにはタクシーが2台あるのみであった。行商は、陸上交通の便が徐々に改善されはじめた昭和初期から出かけるようになり、おもに男性がワカメや鯛を近隣の村々や峰山町に売り歩いた。 戦後は公共事業による集落機能の整備がすすみ、1951年(昭和26年)に町立公民館が設置された。1959年(昭和34年)には、簡易水道ができ、これは1963年(昭和38年)10月、上水道に編入された。同1963年(昭和38年)には、地域住民の就業形態から要望が多くあった三津保育所が開設された。三津保育所は、その後の人口増加に伴い1974年(昭和49年)に1室を増築し、1991年(平成3年)には大規模な修繕工事も行われた。 昭和期、漁業は変わらず三津の主要な産業であったが、現金収入の面では機業をする家には生活にゆとりがあった。織り手は引く手あまたの高収入だったので次々と機業をはじめる家があり、丹後ちりめん最盛期の昭和40年代の機業者は20~30軒あった。昭和中期の三津の各家庭の電化製品の普及はめざましく、テレビ、冷蔵庫、冷凍庫、掃除機、洗濯機、自家用車などを購入する家が相次いだ。現金収入は機業によって増えた家が多く、夫婦はほとんどが共稼ぎで、生活面は派手になっていった。民宿もまた現金収入の手段で、1965年(昭和40年)頃には5軒ほどであったが、その後かなりの家が民宿をはじめた。 昭和後期は、丹後半島の村々では、三八豪雪を機に離村が進んだ時期であるが、三津の若者は漁業に従事する者が増えていた時期で、離村の傾向は見られなかった。漁業者以外では近隣の市町村に新たに進出してきた企業や金融機関などに働きに出る者が多く、大都会に出ていく傾向はほとんどなかった。 しかし、1975年(昭和50年)頃を境に織物業が不況を迎えると、都会に出て行く若者が増え、世帯数に大きな変動はないものの人口は減少していった。1887年(明治20年)頃の人口は約500人で、118戸が居住した。2020年(令和2年)の人口は約360人・戸数150戸前後であり、2016年(平成28年)時点で住民の4分の1以上が75歳以上の後期高齢者となっている。 1979年(昭和54年)、三津は、遊地区とともに健康推進モデル地区に指定された。
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