明治時代から第二次世界大戦まで
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「横浜市の歴史」の記事における「明治時代から第二次世界大戦まで」の解説
1868年(慶応4年/明治元年) 3月、新政府が神奈川奉行所を接収し、横浜裁判所(現在の裁判所とは異なる行政機関)とする。横浜裁判所総督は外国事務総督の東久世通禧、副総督は鍋島直正。4月、横浜裁判所を神奈川裁判所と改称し、神奈川運上所を横浜裁判所、戸部役所を戸部裁判所とする。6月、神奈川裁判所を神奈川府に改称する。9月、神奈川府を神奈川県に改称する。 1868年(慶応4年/明治元年) 新政府が接収した際、横浜の日本人町に横浜町会所が置かれる。 1868年(明治元年) 横浜伊勢佐木町の「太田なわのれん」にて牛鍋(スキヤキ)が出される。 1869年(明治2年) 版籍奉還により、米倉領6ヶ村は六浦藩となる。藩知事は旧藩主・米倉昌言。 1869年(明治2年) 吉田橋に鉄橋が架設される。馬車道で町田房蔵が日本初のアイスクリームを製造販売。丸屋善七(早矢仕有的)が丸屋商社(現在の丸善)を開業。東京(築地)- 横浜間で電信テストを実施(電信のはじめ)。 1870年(明治3年) 横浜郊外の北方村天沼(現・中区千代崎町)にてドイツ人技師コープランドがビール醸造を開始。(キリンホールディングスの嚆矢) 1870年(明治3年) 日本初の日刊の邦字新聞。『横浜毎日新聞』創刊(現在の『毎日新聞』とは無関係)。外国人居留地に日本人設計の下水道を設置。下水管の材質は瓦と同じ陶製管。 1870年(明治3年) 高島嘉右衛門により、鉄道敷設のため神奈川・横浜間海面(現・高島)の埋立事業開始。 1871年(明治4年)7月 廃藩置県により、横浜市域は神奈川県と六浦県に分かれる。9月、六浦県を神奈川県と合併する。 1871年(明治4年) 伊勢山皇大神宮が竣工する。日清修好条規締結により中国との貿易が盛んになり、さまざまな職業の華人が外国人居留地の一角に集中して居住するようになり、中華街(南京町、シナ町)が形成しはじめる。 1872年 新橋(現在の汐留) - 横浜(現在の桜木町駅)間に鉄道が開通。本町通り・大江橋間にガス灯を設置。(日本最初の一般ガス事業) 1873年(明治6年) 5月1日神奈川県は全県を20区に分け、区内を幾つかの番組を設置。横浜町は第1区1番組に編入される。「相生町の大火」発生し、横浜市街地の3分の1が焼失。 1874年(明治7年)6月14日大区小区制に基づき、区・番組を大区・小区に改編。旧来の横浜町は第1大区1小区となる。 1875年(明治8年) 英仏の軍隊が、山手居留地から撤退する。 1876年(明治9年) 横浜公園が竣工する。サミュエル商会(現ロイヤルダッチシェルの前身の一つ)創業。 1878年(明治11年) 11月21日郡区町村編制法に基づき、第1大区の区域をもって横浜区が発足。久良岐郡から分離する。 1878年(明治11年) 横浜に電話が敷設される。 1880年(明治13年) 横浜正金銀行開業。 1881年(明治14年) 外国人居留地下水道が設置され始める。 1882年(明治15年) 横浜商法学校(後の横浜市立横浜商業高等学校、Y校)が開校する。 1887年(明治20年) 日本最初の近代水道(鉄管)が常時給水を開始する。 1887年(明治20年)8月15日 横浜区役所が本町一丁目4番地へ移転する。 1889年(明治22年) 4月1日 市制施行により横浜市となる。初代市長は増田知。横浜港の修築第1期工事が始まり,横浜船渠の建設や港内の浚渫がおこな われた。 1890年(明治23年) 東京-横浜間で電話交換開始。 1894年(明治27年) 横浜港鉄桟橋(現在の大さん橋)が完成する。 1894年(明治27年) 横浜蚕糸外四品取引所(後の横浜商品取引所。2006年に東京穀物商品取引所と合併)が設立される。 1899年(明治32年) 条約改正実施により、外国人居留地が廃止される。 1899年(明治32年) 蓬莱町(中区)の秋元己之助が本格的な清涼飲料「金線サイダー」を発売。 1901年(明治34年) 第1次市域拡張。 1904年(明治37年) 横浜電気鉄道(市電の前身)、神奈川 - 大江橋間開業。横浜正金銀行本店(現在の神奈川県立歴史博物館)竣工。 1905年(明治38年) 京浜電気鉄道(京浜急行電鉄の前身)の神奈川 - 品川間が開通。 1908年(明治41年) 横浜鉄道(横浜線の前身)の東神奈川 - 八王子間が開通。 1909年(明治42年) 開港50年を記念して、横浜市章(ハマ菱)、横浜市歌(作詞・森鷗外)が制定される。本牧に旧中澤邸竣工(現存する横浜の洋館で最も古い。移築され、現・山手資料館)。 1911年(明治44年) 第2次市域拡張。 1911年(明治44年) 横浜赤レンガ倉庫竣工(2号館、1号館は1913年竣工)。日本最初の全鉄筋コンクリート建築である三井物産ビル(中区)が竣工。 1912年(大正元年) 浅野総一郎等が鶴見埋立組合を設立し、翌年から鶴見川河口域の埋め立てを始める。 1913年(大正2年) 蒔田地区(現在の南区共進町周辺)にて、博覧会「横浜勧業共進会」開催。 1915年(大正4年) 2代目・横浜駅(西区高島一丁目付近)が開業する。 1917年(大正6年) 開港記念横浜会館(現在の横浜市開港記念会館)が竣工。横浜港第2期工事が完了したことで船舶の主な接岸場所は象の鼻の波止場から鉄桟橋や埠頭へと移動し、これにより横浜港は船舶停泊地150万坪の巨大港へと成長した。 1923年(大正12年)9月1日 関東大震災が起こる。横浜市の被害家屋は約9万4000戸にのぼり、罹災人口はおよそ3万3000人(死者・行方不明者2万3000人以上)。震災に乗じて、いわゆる乞食谷戸と呼ばれた地域などで朝鮮人虐殺が行われる。9月3日から11月19日まで、神奈川県に戒厳令が施行される。復興事業により、瓦礫を埋め立てに用いて、山下公園(中区)、野毛山公園(西区)、神奈川公園(神奈川区)が作られる。また、横浜生糸検査所(1926年、現・横浜第二合同庁舎)、ホテルニューグランド(1927年)、神奈川県庁舎(1928年)、横浜税関(1934年)などの横浜を代表する建築が現れる。 1925年(大正14年) いわゆる電力争覇戦に伴い、鶴見騒擾事件が起こる。このころから、埋立地・鉄道網・電力供給が整い、京浜工業地帯が形成される。 1927年(昭和2年) 4月、第3次市域拡張。10月1日、区制施行。鶴見・神奈川・中・保土ケ谷・磯子の5区が発足。 1928年(昭和3年) 3代目・横浜駅(現在の横浜駅)が開業する。 1935年(昭和10年) 横浜大博覧会開催。 1936年(昭和11年) 第4次市域拡張 1937年(昭和12年) 第5次市域拡張 1939年(昭和14年) 第6次市域拡張に伴い、戸塚・港北の2区を新設。 1942年(昭和17年)2月1日 味噌と醤油の配給制度が始まる(川崎市、横須賀市、藤沢市、平塚市、鎌倉市、小田原市も同日から開始)。同時に衣料品にも点数切符制が導入された。 4月18日、初めての空襲。以後、終戦までに30数回の空襲にみまわれる。10月1日、東京、大阪、名古屋、神戸に次いで人口100万人突破。 1943年(昭和18年) 中区を分割して南区を新設。 1944年(昭和19年) 中区を分割して西区を新設。 1944年(昭和19年) 7月 学童集団疎開が始まる。 1945年(昭和20年) 5月29日、横浜大空襲。
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明治時代から第二次世界大戦まで
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「大友皇子即位説」の記事における「明治時代から第二次世界大戦まで」の解説
明治時代の初め、1870年(明治3年)7月23日に、政府は大友帝、廃帝、九条廃帝にそれぞれ弘文天皇、淳仁天皇、仲恭天皇と追諡した。三人とも、天皇に対して諡を奉るという形式をとっており、諡をつけることで天皇に列したのではない。淳仁、仲恭が天皇であったことは明白で、単に諡号がなかっただけであったから問題にはならなかったが、「大友帝」の存在は学説に拠るものだった。政府内外から反対意見が提出されたが、政府はその説を少数とみて採らなかった。 1904年(明治37年)に喜田貞吉が論文「女帝の皇位継承に関する先例を論じて大日本史の大友天皇本紀に及ぶ」を出して壬申年に女帝があった可能性を示唆した。喜田はこの論文で『日本書紀』改刪説を批判して、不必要な天武天皇2年の太歳を削り忘れ、必要な太歳壬申を誤って削るという二重の不手際はありえないと論じた。 論争を経て喜田は倭姫王即位説にまで論を進め、学界では倭姫王の即位または称制説が優勢になった。しかし、1911年(明治44年)に喜田が南北朝正閏問題で職を失うと、同種の性格を持つこの論争も冷水を浴びせられた。喜田はその後も自論を発展させて1922年(大正11年)の論文「後淡海宮御宇天皇論」で区切りをつけた。これに対しては1932年(昭和7年)に黒板勝美が、大筋は認めるが即位の証拠はないとして称制を推定した。
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「大津市」の記事における「明治時代から第二次世界大戦まで」の解説
1868年(明治元年) - 大津県が置かれる。 1869年(明治2年) - 大津〜海津間に汽船航路が開通する。 1870年(明治3年) - 膳所城取り壊し、翌年膳所藩は膳所県になる。 1872年(明治5年) - 滋賀県が成立して、大津は県庁所在地になる。 1880年(明治13年) - 逢坂山トンネルが開通。京都と鉄道が繋がる。 1889年(明治22年)7月1日 - 東海道本線が開通。大津〜長浜間の連絡汽船に代わる輸送経路となる。 1890年(明治23年) - 琵琶湖疏水が完成。琵琶湖沿岸から京都への水道が通じる。 1891年(明治24年)5月11日 - 大津事件が発生。司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件とされる。 1905年(明治38年) - 南郷洗堰(現在の瀬田川洗堰)が完成する。 1912年(大正元年) - 京津電車が、三条〜札ノ辻間で開通する。 1940年(昭和15年) - 皇紀2600年を記念して近江神宮が創祀される。 1945年(昭和20年) - 大津空襲が発生する。
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