天皇論
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基本的な考えとして三島は、日本を日本以外の国から、何が日本かということを弁別する最終的なメルクマール(指標)は、〈天皇しかない〉としている。 日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは天皇しかない。他にいくらさがしてもないんだ。 — 三島由紀夫(石原慎太郎との対談)「天皇と現代日本の風土」 また、工業化が進展しテレビやマスメディアなどの〈バカなコミュニケーション〉が発達し伝達機能が容易になればなるほど各人のバラバラがひどくなる「自己疎外」が起こって国民が分裂し孤立してきて、〈伝達することによって、何らそれを統合することはできない〉状態となった空間的社会において、それを統合するには〈空白のもの〉、空間的伝達からの〈断絶〉しかないと三島は考え、〈時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかいない、それが天皇だ〉としている。 三島は、〈天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならない〉とし、軍事の最終的指揮権を〈天皇に帰属せしむべきでない〉としている。これは天皇が日本の歴史の〈時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴〉であり、〈神道の祭祀〉を国事行為として行ない、「神聖」と最終的に繋がっている存在ゆえに、〈天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ〉というのが三島の考えだからである。 この〈時間的連続性〉のことを三島は〈縦の軸〉(時間軸)とも呼び、敗戦の結果、戦後の日本社会が、国際的・経済的な空間軸(横の軸)ばかりになり、自国の伝統・文化・歴史の持続性・連続性である〈縦の軸〉が軽んじられているとしている。そして、冷戦時代に入り共産圏の国々においてすら、〈歴史の連続性〉の観念がなければ国家の平和や存立が危ぶまれるということに気づいているにもかかわらず、戦後から日本は時間(歴史)の連続性という〈縦の軸〉の重要性がないがしろにされ、国家の根本が危うくなっていると危惧している。 日本の〈歴史と文化の伝統の中心〉、〈祭祀国家の長〉である天皇は、〈国と民族の非分離の象徴で、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である〉と説く三島は、〈文化概念としての天皇〉という理念を説き、伊勢神宮の造営や、歌道における本歌取りの法則などに見られるように、〈オリジナルとコピーの弁別を持たぬ〉日本の文化では、〈各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはない〉ため、天皇は神聖で〈インパーソナルな〉存在であると主張している。 日本的な行動様式をもすべて包括する「文化」(菊)と、それを守る「剣」の原理(刀)の栄誉が、〈最終的に帰一する根源が天皇〉であり、天皇は日本が非常事態になった場合には、天皇文化が内包している「みやび」により、桜田門外の変や二・二六事件のような蹶起に手を差し伸べる形態になることもあると三島は説き、天皇は〈現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性〉を持つものとしている。 そうした〈ザインの国家像を否とし、ゾルレンの国家像を是とする者〉の革新のシンボルともなり得る天皇制における〈純粋性のダイナミクス〉、〈永久革命的性格〉を担うものこそが〈天皇信仰〉である三島は述べ、〈希望による維新であり、期待による蹶起〉の性質を持っていた二・二六事件は、〈「大御心に待つ」ことに重きを置いた革命〉であり、〈当為(ゾルレン)の革命、すなはち道義的革命〉の性格を担っていたとしている。 私は本来国体論には正統も異端もなく、国体思想そのものの裡にたへず変革を誘発する契機があつて、むしろ国体思想イコール変革の思想だといふ考へ方をするのである。それによつて、平田流神学から神風連を経て二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のザインであり、天皇信仰自体が永遠の現実否定なのである。明治政府による天皇制は、むしろこのやうな絶対否定的国体論(攘夷)から、天皇を簒奪したものであつた。(中略)しかし明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存してゐた。この道義国家としての擬制が、つひに大東亜共栄圏と八紘一宇の思想にまで発展するのであるが、国家と道義との結合は、つねに不安定な危険な看板であり、(現代アメリカの「自由と民主主義」の使命感を見よ)これが擬制として使はれれば使はれるほど、より純粋な、より先鋭な、より「正統的な」道義によつて「顛覆」され「紊乱」される危険を蔵してゐる。道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。(中略)日本テロリズムの思想が自刃の思想と表裏一体をなしてゐることは特徴的であるが、二・二六事件の二重性も亦、このやうな縦の二重性、精神史的二重性と共に、横の二重性、社会学的二重性を持つてゐる。それは同時に、尖鋭な近代的性格を包摂してゐる。 — 三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」 三島は、〈日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない〉として、明治維新をみても結果的には〈開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、攘夷論者がやった〉という〈歴史の皮肉〉、〈アイロニカルな歴史意志〉があるとしている。 そして〈西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点〉、〈革新の原理〉であり、最終的に〈維新を「承引き」給う〉存在である祭祀王の天皇は、〈西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴〉であると三島は自身の天皇観を語りつつ、昭和の天皇制はすでにキリスト教が入り込んで西欧理念に蝕まれていたため、二・二六事件の「みやび」を理解する力を失っていたと批判している。 さらに戦後の政策により、「国民に親しまれる天皇制」という大衆社会化に追随したイメージ作りのため、まるで芸能人かのように皇室が週刊誌のネタにされるような〈週刊誌的天皇制〉に堕ちたことを三島は嘆き、天皇を民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三のことを、皇室からディグニティ(威厳)を奪った〈大逆臣〉と呼び、痛罵している。 三島は、昭和天皇個人に対しては、〈反感を持っている〉とし、〈ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです〉と死の1週間前に行なわれた対談で発言しているが、この天皇の「人間宣言」に対する思いは、『英霊の聲』で端的に描かれ、「人間宣言」を指南した幣原喜重郎も批判している。 三島は、井上光晴が「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」と言ったことに触れ、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。また、〈幻の南朝〉に忠義を尽くしているとし、理想の天皇制は〈没我の精神〉であり、国家的エゴイズムや国民のエゴイズムを掣肘するファクターで、新嘗祭などの祭祀の重要性を説いている。 天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。(中略)天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。 — 三島由紀夫(福田恆存との対談)「文武両道と死の哲学」 また、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、昭和天皇(実際には朝融王との説が有力)に謁見し恩賜の銀時計を拝受したとも語っている(銀時計拝受は卒業式後に宮内省で行なわれた)。 ぼくらは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、三時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく三時間、全然木像のごとく微動もしない。卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなこと言いたくないよ、おれは。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そして、それがどうしてもおれの中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった、そのときの天皇は。 — 三島由紀夫「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」(1969年5月13日、東京大学900番教室壇上において) 終戦直後の20歳の時のノートにも、昭和天皇が「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも即刻撤廃せよ」と命令した「大御心」への感銘を綴っている。 磯田光一は、三島の自決1か月前に、本当は腹を切る前に宮中で天皇を殺したいが宮中に入れないので自衛隊にしたと三島から聞かされた、という主旨を語っているが、これに対して持丸博は、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがない、という主旨の疑問を唱えている。 長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記『入江相政日記』の記述から、昭和天皇が三島や三島事件に少なからず関心を持っていたことが示されている。 なお、鈴木邦男は三島が女系天皇を容認しているメモを楯の会の「憲法研究会」のために残しているとして、昭和天皇が側室制度を廃止して十一家あった旧宮家を臣籍降下させたことなどにより、将来に必ず皇位継承問題が起こることを三島が批判的に予見していたという見解を示しているが、鈴木が見解の元としている松藤竹二郎の著書3冊にもそういったメモや伝言の具体的な提示はなく、松藤の著書には、三島の死後に「憲法研究会」によって作成された原案の概ねの内容を紹介しているだけで、鈴木はそれを「三島メモ」と勝手に言い換えてミスリードしている。元楯の会会員らや三島研究者の間でも三島が女系天皇を容認していたことを示すメモや文献の存在は確認されていない。また、三島が生前に「女帝」や「女系」天皇に言及したことはなく、「憲法研究会」に3度顔を見せた際も、男系・女系天皇について何の話もしていない。三島の文学や評論を仔細に見ている松本徹も、「三島文学やそこに書かれた三島の男性観・女性観からみて三島の女系天皇容認説はありえない」と述べている。 鈴木邦男が感心した「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に行われた「憲法研究会」における討議案のうち、あくまで1人の会員の意見として記載されているだけで、それに異議を唱える会員の意見もあり、「憲法研究会」の総意として掲げているわけではない。仔細に読めば、その後段の話し合いでも、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。
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天皇論
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天皇制について、「私の天皇像とは、天皇制を遂行できる天皇である。もしそれができない天皇ならば退位してもらいたい」「皇后の役目は、ダンスでもなければ災害地見舞でもない」と平成年間の皇室の在り方に対して、批判している。
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