天皇訴追問題
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「昭和天皇・マッカーサー会見」の記事における「天皇訴追問題」の解説
10月2日、マッカーサーの秘書であるボナー・フェラーズ准将は、真珠湾奇襲に始まる開戦は昭和天皇の意思ではなかったと立証され得るとする覚書『フェラーズ・メモ』を作成した。『フェラーズ・メモ』は、天皇の訴追を防止するための理論武装の性格を有していた。第一に、法的に『宣戦の詔書』を発した責任は免れないが、実質的には東条英機又は軍部が開戦を敢行した。第二に、天皇は日本国民にとって重要な存在であり、訴追した場合の重大な事態が引き起こされる。後者は、政治的判断として強調された。 この覚書の中で、フェラーズは「天皇が直接語ったところによれば」「『宣戦の詔書』を東条が用いた如くに使用する意図はなかった」と記し、さらに日本の武装解除に天皇が果たした役割を高く評価した。「直接語った」相手は、天皇の側近以外にはマッカーサーしかおらず、第1回会見でマッカーサーが得た情報が反映されたと考えられている。 翌1946年(昭和21年)1月25日、マッカーサーは天皇の訴追に関する証拠資料を、アメリカ本国に回答した。その内容は、『フェラーズ・メモ』とほぼ同一であったが、免れ得ない法的責任のくだりが無くなり、代わって実質的な権限を持たない「立憲君主」の面が強調され、天皇を裁判にかけた場合の米国側の人的コスト増加や占領の長期化や強調され、より「演出表現」を強めたものになっていた。 さらに同年1月29日、来日した極東諮問委員会代表団に対し、マッカーサーは「戦争を阻止できなかった理由」に関する昭和天皇の発言を次のように紹介した。 「私としては決して戦争を望んでいなかったが、自分であれ他の天皇であれ、開戦時に政界や世論の圧力に対して有効な抵抗をすることはできなかった」 その上で、天皇が国家の意思決定における「形式的役割」を担っていたに過ぎないとした。 同年3月4日付の『ライフ』誌では、日本特派員ローターバッチによる「秘められた日本の戦争計画」とする記事が発表された。記事ではマッカーサーの「戦争を許可した理由」の問いに対する昭和天皇の発言を次のように紹介した。 「もし私が許さなかったら新しい天皇が立てられていたであろう。戦争は日本国民の意思であった。誰が天皇であれ事ここに至っては、国民の望みに逆らうことはできなかった」 戦争を望んだのが「世論」から「国民の意思」へと、表現がエスカレートしている。 4月3日、最高意思決定機関である極東委員会 (FEC) はFEC007/3政策決定によって天皇不起訴の合意に至り、4月17日、極東国際軍事裁判における、A級戦犯被告が確定した。裁判に並行して、ラジオ番組『真相箱』が放送され、日本国民に対してもローターバッチによる記事と同一の天皇発言が紹介された。 こうした動きとは別に、極東軍事裁判で検察官を務めたジョセフ・キーナンは、1945年(昭和20年)12月6日の来日時にマッカーサーから昭和天皇が第1回会見時に「この戦争は私の命令で行った」「私だけ処罰してもらいたい」発言したたため、同裁判を成立させるために天皇を訴追してはならないと命じられたことを、1946年(昭和21年)5月頃に田中隆吉陸軍少将に打ち明けた。キーナンは1948年(昭和23年)11月21日、同裁判終結後の離日時にこのことをUP通信支局長に打ち明け、また田中も1965年(昭和40年)になって『文芸春秋』誌でこのことを公表した。 また、GHQ側からの情報収集を積極的に行っていた松平康昌も同様の天皇発言の情報を、田中に伝えている。キーナンや松平から天皇発言を聞いた田中は非常に感激し、同裁判で証言台に立つ崇高な使命感を抱いた。 一連の経緯から、マッカーサーは様々な手段によって、「天皇は戦争に反対していた」「天皇は世論や軍部に抵抗できなかった」「反対したらクーデターが起きていた」というイメージを、天皇発言を引用する形で内外に広めていったと考えられている。一方、天皇が第1回会見時に自らの責任を認める発言をしたことを、極東軍事裁判のキーマンである、田中やキーナンに流出させて、双方の努力によって同裁判への昭和天皇の出廷を阻止させ、法廷闘争においても成果をあげた。
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