天皇総帝論・八紘一宇
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「現人神」論の一般化 現代推論されるところでは加藤玄智は、西洋の絶対神が合理主義で批判されないことを見て、天皇を絶対神と同様に説明した言論を広め、批判を封じようとした。しかし、西洋人からすればモンゴル人種または「黄色い猿」である天皇が、日本人によって絶対神と同一視されていることが、西洋で驚かれ嫌悪された。 「現人神」論は「天皇絶対」論を兼ねており、東京帝国大学で憲法学者上杉慎吉も主張していた。天照大神や天皇の絶対的唯一性を否定する論について、上杉は批判している。以下に引用する。 家族の宗長として、祖先崇拝の考より服従すると云ふも足らぬ。現人神である、天皇なるが故に服従する。服従すべきものと信仰するが故に、崇拝服従する。信仰に理由はない。 神々のうちに、各神が絶対的に憑依するの中心たる真神が在まさねばならぬ。皆神ならば、皇道又は古神道は成立する筈がない。(中略)カミと云ふ者種々雑多なれど、所謂る古神道を一の宗教なりとして、概念上神とすべきは唯一天皇、祖宗以来、一代には唯だ一人在ます、カミ御一人、絶対至尊の御方の外にはなしと申さねばならぬ。 予は皇道の本義は絶対に天皇に憑依するに在りと云ふた。之を宗教とするは、神は唯だ此の御一方であるのである。 神代の人は皆神、功績徳望ありし人は皆神では、皇道は成り立たぬ。 上杉はこうも言った。 天皇に絶対的に帰依してその精神と合一するならば、有限を超越して、個人の圧迫や不安を解脱することができるというのが古来の日本人の信仰であった。 「八紘一宇」へ 「世界統一」思想である「八紘一宇」は、「現人神」論とセットに語られてきたもので、田中智学の日本神話解釈から由来している。天皇は天照大神の延長であり、よって日蓮主義者は天皇の徳と政治が一致するように努力しなければならないという日蓮主義の説が起源である。 「伝統精神」(国家社会主義)へ 国家社会主義は社会主義的な「国家主義の一種」であり、日本では「純正日本主義(皇道主義)」と連れ立って活動していた。特に「国家社会主義(ナチズム)」は、民族主義・全体主義・反個人主義・反自由主義・反民主主義・反議会主義・反社会主義・反マルクス主義等を掲げる。なお、「右翼」は「一般にはドイツのナチス,イタリアのファシスト,日本の超国家主義者などがその代表」とされている。 「右翼」、「国家主義」、および「国家社会主義」も参照 昭和時代初期には、天皇にまつわる「伝統の発明」として代表的に佐藤信淵および大国隆正の思想が利用された。江戸時代末期の著述家である信淵の、帝国的で統制経済的な思想を象徴したのは、『混同秘策』(1823年)と『垂統秘録』(1833年)だった。前者では、日本は世界を支配する使命があり、その手段として満州・朝鮮・中国を併合すべきであると説かれている。後者は、国家による統制経済の必要を説いている。こうした著述が援用され、戦時中には信淵は「大東亜戦争の予言者」と称賛された。 だが大東亜戦争時に至るまでは、信淵の思想は存命中および死後も、実質的に政治へ影響した例が無かった。『混同秘策』と『垂統秘録』も「秘本」であり、一部の弟子以外には閲覧さえ許されず、公刊されたのは1887年(明治20年)以降だった。 世界支配および統制経済を掲げた信淵への関心が高まっていったのは、日露戦争の勝利後である。また、社会主義の観点から信淵に興味を示す日本知識人も現れ始めた。信淵への評価を決定的に変化させたのは、1927年(昭和2年)に大川周明が著した『佐藤信淵の理想国家』だった。信淵の思想は 鮮明に国家社会主義的である と位置づけられ、「伝統精神」と見なされた。また、次のようにも評価された。 信淵の信念は、実に聖徳太子に動き天智天皇に動きたる日本精神其ものゝ信念である。この精神は、唯だ偉大な魂のみ、能く之を把握し得る。 こうして信淵の思想は「国家社会主義」であり、「伝統精神」「日本精神」の中核であると見なされた。1934年(昭和9年)には、三上参次や河野省三といった歴史家・神道研究者までもが、日本の「伝統」的な「国家社会主義」を讃えるようになった。この「伝統精神」は小学校の歴史教科書でさえ扱われるようになり、「進んで海外に植民地を開拓し、国力を伸ばさなければならない」「日本が海外に進出する提唱がすでに江戸時代からあった」というように論じられた。 「国家社会主義(ナチズム)」、「日独関係」、「日独伊三国同盟」、および「枢軸国」も参照 「天皇総帝論」へ 戦時中には「天皇総帝論」がもてはやされていた。「天皇総帝論」とは、同じく戦時中に「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末の国学者、大国隆正が唱えた議論である。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった。 「天皇総帝論」は、もとより外交や政治に影響を与えたことが無かった。しかも、隆正の一部の弟子以外には忘れ去られていた。だが、帝国の昭和時代になると世間から注目され始めた。その発端は昭和2年5月、宮中顧問管(山口鋭之介)が「大国隆正と日本精神」という文章を新聞に掲載した頃である。隆正は「日本の最も偉大な思想家であり、最も偉大な国学者であつた」、「明治維新の基礎をなした第一の功績者である」と断定された。 新聞掲載の後に、「天皇総帝論」や隆正を扱う論文が急増し、『大国隆正全集』も公刊された。実は『全集』から省かれているが、もともと隆正は日本神話、『古事記』、『日本書紀』を「わがくにの小説演義の鼻祖(作り話の元祖)」と扱っていた。だがこれは、長いあいだ世に知られることがなかった。 第二次世界大戦に至る中で、「天皇総帝論」は 明治維新から今日の皇道世界維新に直通一貫して生きてゐるのである。 と、大崎勝澄によって理屈付けられた。そして「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた 「唯一の思想的原動力」 「天皇中心の世界一体観」 「大宇宙をも包含するが如き深遠宏大なる日本肇国理念」 「時を超えて永遠に新鮮な世界観」 「真日本の発見」 「純なる日本的世界観」 「古事記の発見」 「天皇政治の世界性」 「国民的自覚」 「大和民族の宿志」 「大和民族本来の世界史的使命」 「日本の肇国理念そのもの」 「天津神がことよさし給へる天業的使命」 「神武天皇が抱懐せられたる世界史的御雄図」 「惟神(かんながら)的世界観」 等であると認識されていった。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が明治維新や日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した。 当時アメリカ合衆国では、「天皇とは何か」というアンケート調査が行なわれた。1944年4月に雑誌『フォーチュン』で日本特集号が組まれ、調査の回答結果は 「日本人にとって唯一の神」:44.2% 「名目上の飾り(宗教面は除く)」:18.6% 「独裁者」:16.4% 「無回答」:15.1% 「英国流の国王」:5.7% という内容だった。 敗戦後 日本の降伏後のGHQの神道指令には、“State Shinto”(国家神道)といった語をはじめ、加藤の影響が及んでいた。神道指令を起草する際にW. K. バンスが用いたものは、アメリカ人の神道学者D. C. ホルトムの神道論ではあったが、ホルトムも加藤の神道論から学んでいた。 敗戦後の加藤は公職追放された他、恩給を一時停止された。加藤たちの時代の宗教学的理想は、諸宗教の融合調和だった。加藤によれば、神道と仏教との合一は「国家的神道」の中で成立していたが、神道とキリスト教との合一は「全うしかねて居」た。しかし1959年、当時の皇太子だった上皇明仁の結婚によって、「此破天荒の精神的大事業」が定結されたと加藤は述べた。キリスト教(カトリック)系教育の中で成長した正田美智子を皇室に迎えることによって、従来は一大難事だった「宗教的融合調和」が成立したという。前川はこれを、加藤の「二〇歳代の夢の続き」と評している。 批判 前川によると、加藤の研究は「多分に規範的」であり、「神道研究」というよりは「神道論」だった。また、加藤と同世代の民俗学者・柳田國男は、最近の世の神道論は現実を踏まえてない、「人為的」な「新説」だと批判した。当時、神社は国家の「宗旨」であり、宗教でないとされていた。それは学問から見て「無内容」だったが、多様な神道論や神社論が主張されることとなり、加藤は有力な論者の一人となっていた。
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