神道と仏教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:28 UTC 版)
両者とも穢れに対する意識はあるが、もっとも異なるのは、死そのものに対する考えで、神道では死や血を穢れとするが仏教では神道のようには死を穢れとみなさない[要出典](※下記「穢れ観念の起源」の説明と相違あり)。葬式などは、仏教では寺で行うこともあるが、神道では神域たる神社ではなく各家で行う。これは神聖なものがなんであるかの違いであり、また、清めの塩は穢れた自分を清めているものである。数珠を左手に巻くのは自分の左手を不浄として数珠で浄めているのである。死においてはその精神状態が最も重要視されるため、亡くなった方だけでなくその身内も忌中の間は神域に立ち入ることは一般には許されない。一方で、死者を神として祀る神社があったり、また墓である古墳も神域と見なされる。仏教では、死は次へ転生する輪廻という世界の有り様であり、これを否定するような概念は存在しない。その現象から自ら抜け出そうとする。仏教での穢れは、潜在力として蓄積されることを嫌うものであり、こちらは論理的根拠に基づく。 日本人にとって神は超自然的な物であり、畏れられると共に敬われもした(御霊信仰など)。また死者は清められ、特定の死者はその魂を神として祀る。これらの神と穢れは相成り得ないもので、神社での手水舎は、外界での穢れを祓うために設置されている。 日本での仏教は神道との習合がいたるところで存在し、両者での考えが入り乱れていることもある(寺院における鳥居、建築様式など)。穢れも同様である。
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神道と仏教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 05:20 UTC 版)
神道は日本文化の源泉であると考えられている。自然と倫理との全体性に重点を置き、風情を祝うことで日本の美学のトーンを設定してきたといえるが、それにもかかわらず日本の美的理想は日本の仏教に最も大きく影響されている。仏教の伝統では、すべてのものは無から進化するか、無に溶けると見なされているが、この「無」とは単なる空きスペースではなく、それはむしろ可能性のある空間とみなされ それを海の可能性を表しているとすれば、それぞれが海から発生して戻ってくる波のようなものと解釈されており、恒久的な波ではないのである。波のピーク時でさえどの時点でも完全な波はみられないのである。自然は賞賛され、評価されるべきダイナミックな全体として捉えられている。この自然への感謝は、多くの日本の美的理想「芸術」、その他の文化的要素の基本となっており、この点で「芸術」(またはその概念的同等物)の概念も西洋の伝統とはかなり異なっているのである(日本美術を参照)。
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