神道の理論化と本地垂迹説
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「神道の歴史」の記事における「神道の理論化と本地垂迹説」の解説
知識階層においては、神道を教義化・内面化する動きが広がった。その嚆矢は、平安時代中期ごろより密教僧が密教的語彙により形成した両部神道説であり、その最初期の例である真言宗の僧・成尊が11世紀に著した『真言付法纂要抄』では天照大御神と大日如来が一体であり、日本こそが密教流布に相応しい地であると主張され、中世神道説における主要な概念がここから導き出されることとなった。 その後、1186年(文治2年)の重源による伊勢神宮参籠をはじめとして僧侶による伊勢神宮参拝が相次いで行われるようになり、伊勢神宮御厨のあった仙宮院を中心に両部神道書が大量に著述されるようになった。その最初期のものと思われるのが、『三角柏伝記』『中臣祓訓解』である。これらの書物において、伊勢神宮の内宮と外宮が密教における胎蔵界と金剛界に配され、両宮が地上に出現した曼荼羅と見立てられ、天照大御神は光明大梵天王であり日天子、豊受大神は尸棄大梵天王であり月天子とされた。その後、『麗気記』が編纂され、真言密教に基づく秘説を集成し、両部神道の代表書となった。 さらに、寺院において神道書や関連する切紙などが成立するようになると、これを相伝する両部神道系の神道流派が形成されるようになり、守覚法親王を始祖とする三宝院御流や、三輪山周辺の平等寺において展開した三輪流などが成立する。このような両部神道系の諸流派においては、その秘事の伝授にあたり、密教に倣った灌頂・伝授が行われ、これを神道灌頂と言った。 真言密教のみならず、天台宗の立場からも神仏習合思想に基づく神道説が生じた。その基本は、比叡山の守護神である日吉大社の意義を天台教学に基づいて説明するものであり、これを山王神道と呼称する。 13世紀には、『耀天記』が著され、日吉大社の大宮(西本宮)は末法小国である日本の衆生を救うために釈迦が大明神として垂迹したものであるとされた。さらに14世紀には義源が『山家要略記』を著して、本宮のみならず山王七社全てが仏の垂迹であると主張した。その後、義源の弟子の光宗が『渓嵐拾葉集』を著して天台教学を全て山王に結びつけて教義を体系化した上で、山王明神は人々の心に備わっているものであるとした。また、衆生は修行をせずともすでに悟りを開いているという天台本覚思想の流行に相まって、衆生に近い日本の神こそが本地であり、仏が神の垂迹であるという反本地垂迹説もこの書物の中で主張されている。なお、天台宗における神道論は、主に記家と呼ばれた僧の集団によって担われたものである。 鎌倉時代後期には、東大寺あるいは南都において、三社託宣という掛物も成立した。これは、天照皇大神・八幡大菩薩・春日大明神の三社の託宣として、正直・清浄・慈悲の教条を漢文体で書き記したものである。この三社がとりわけ信仰対象となったのは、天皇の祖神である天照大御神、武家(清和源氏)の氏神である八幡神、公家(藤原氏)の氏神である春日神の三神が、神代において幽契を結んでおり、現世において天皇・武家・公家が協調して政治を行うことが神代より定められていたという信仰によるものである。 中世の神仏習合思想の浸透の中で、各神社では縁起が多く作成されるようになり、多くの神社縁起や縁起絵巻が作成された。『春日権現現記』や『北野天神縁起』『八幡愚童訓』などが著名で、14世紀に成立した『神道集』にはそういった説話類が集められている。中世に入って朝廷が衰微し、武家から確かな庇護を受けるためにこのような縁起類が作成されたと考えられる。また、神仏習合に基づいて神話を再解釈する中世神話も広がった。 なお、本地垂迹説の傾向は鎌倉時代に勃興する鎌倉新仏教にも取り入れられ、浄土真宗においては存覚が『諸神本懐集』を著し、日本の神社を、仏を本地に持つ「権社」と、そうではない「実社」に分け、「権社」のみを崇敬するべきだと主張した。日蓮宗では、日蓮自身も積極的に神道を取り込み、日蓮の弟子日像により法華神道という形で体系化された。その思想は、日蓮が提唱した法華経に基づく正法が正しく行われている場合には、熱田明神を筆頭とする三十番神という日本の神々が、1日交代で日本を護持するというものである。その他、時宗や臨済宗、曹洞宗でもそれぞれの態度に基づいて本地垂迹説が受容された。
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