さんしゃ‐たくせん【三社託宣】
さんしゃたくせん 【三社託宣】
三社託宣
三社託宣
三社託宣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 15:29 UTC 版)
「絹本著色後醍醐天皇御像」の記事における「三社託宣」の解説
画面上部には三社託宣(さんじゃたくせん)という神のお告げを記した名号が、短冊形の白紙に墨書され、貼られている。中央に「天照皇大神」、向かって左に「春日大明神」、右に「八幡大菩薩」である。 通説では、三神のうち、伊勢神宮の天照皇大神は正直を、春日大社の春日大明神は慈悲を、石清水八幡宮の八幡大菩薩は清浄を司り、それぞれ天皇家・公家(藤原氏)・武家(清和源氏)の祖神である。 黒田日出男は、礼盤(座具)の三獅子との対応を見る限り、三社託宣は後から貼られたものではなく、最初から貼られていたのではないか、とした。そのうち特に天照皇大神に着目し、天照皇大神の本地(仏教上の本体)は真言第一祖の大日如来であるから、その下に第二祖たる金剛薩埵を模した後醍醐が座っていることは、大日如来→金剛薩埵と天照大神→後醍醐天皇という流れが、二重のシンボルとして現れているように考えられる、と指摘した。これによって、後醍醐本人の遺志かは不明だが、少なくとも作者である文観は、後醍醐を王法・仏法・神祇の中心に位置づけている、と主張した。 炭谷拓美は、三社託宣と格狭間の三頭の獅子は、三種の神器を象徴しているのではないか、とした。 内田啓一は、これらの託宣が、成立当初から貼られていたかどうかについて、五七日忌の開眼による成立より後のどこかの時点で、霊性を高めるために、御簾の上に絹が継ぎ足されて追加されたのではないかと推測する。ただし、実物を精査をした訳ではないため、確信は持てないとしている。 遠山元浩は、成立時点で託宣が貼られていたとする。遠山によれば、託宣の短冊は三神そのものを表し、かつ図像においては後醍醐天皇と同一視されており、後醍醐が神仏と同等の信仰対象であることを示すのではないかという。そして、図像の下段、それぞれ向かって右・左に、阿形の獅子・吽形の獅子が描かれているのは、そのためであるという。遠山はまた、阿弥陀を尊ぶ時宗内では、本作品の天照皇大神を大日如来、八幡大菩薩を阿弥陀如来、春日大明神を阿弥陀の補佐である不空羂索観音に見立てて崇拝されたと見られることを指摘した(#成立後の来歴)。 阿部泰郎は、文観房弘真が広めた密教思想である「三尊合行法」と関わりがあるのではないか、としている。三尊合行法とは文字通り三つの尊格(仏や菩薩など高位の存在)を合わせて修法(祈祷)を行うものである。仏教哲学的にいえば「不二」を超克したものであるが、美術的にいえば二つではなく三つのシンボルを絡めて描くことができるので、より深みや広がりが増す創造的な思想だった。学僧としても、画僧としても、優れた能力を持っていた文観の、真骨頂と言える。実際、文観の学問的著作である『遺告法』(高野山金剛三昧院蔵、高野山大学図書館寄託)にも「天照大神、八幡、春日」の神祇を三尊合行法の文脈で語ったものがある。阿部によれば、学僧として三尊合行法の思想に到達した文観が、画僧として絵画上に表現した最大の結晶の一つが本作品なのではないか、と言う。 この三社託宣の配置について、同じ南北朝時代の三社託宣(個人蔵・奈良国立博物館『神仏習合』展示品)と比較すれば、現行のものは成立時点から変わらず、同一であると考えられる。しかし、模本の様子から、模本の成立時点(永正14年(1517年)3月21日)では左と右の託宣が一時的に入れ替わっていたと見られる。これが修理等による錯簡なのか、それとも何か故意の理由があったのか、そしていつ本来の配置へ戻ったのか、といった詳細は2014年時点では不明である。
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